Title: くま。
2015.11.17

とある小学生の宿題をみているときに、その男の子は宿題が一段落するたびに、横に置いてあるお菓子の箱を切り刻んで、四角いカードを作っていた。

はじめは集中力がきれたのかと思ってみていたのだけど、箱を切り終わると、周りで騒ぎ回る他の子供たちをものともせず、すごい集中力で宿題を進める。そしてまた一段落すると箱を切る。

何度もそれを繰り返すので、それなに作ってるの?って聞いたら

「これは宿題が一段落したら、がんばったご褒美にこれを切ってもいいって約束をしてるんだ」とその子は答えた。

なるほどと思いながら、それは誰と約束しているの?と聞くと、その子は一言、

「おれと」と答えた。

自分との約束。それを守るために集中して一枚ずつドリルをこなす彼を見てすごい格好いいなぁと。

そしてふとみるとそういうカードの束がたくさん鞄の中にはいっていて、このカードの数だけ彼は自分との約束を守ってきたのだとおもったらなんかとても響いた。

誰と約束してるの?

おれと。

ハードボイルドだなぁと。





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Title: アーモンド。
2015.11.17
先日、実家で久しぶりに焼かれたケーキをほおばりながら、ふと中村勘三郎さんが亡くなったときに、坂東三津五郎さんが「肉体の芸術ってつらいね。全てが消えたよう。本当に寂しい」と言っていたことを思い出した。
 
家庭の味というのは人に説明するのは難しいのだけど、それをつくる人の感覚とかタイミングとか配合とかからうまれた無二のオリジナル料理で、それは作り手がいなくなってしまうととても再現の難しい類の一品なのだと思う。
 
それが家庭料理であれ、歌舞伎であれ、料理人の作り出す一品であれ、芸術であれ、文学であれ、もっといえばアホなあいつとの会話であれ、そのすべては作り手が消えてしまうとどれも同じように再現するにはとても難しいものなのだ。
 
つまりはそれを無常というのかもしれないのだけど。
 
無二なんだなと。
 
この瞬間も。
 
作り手が消えたら二度と味わうことができないのだなと。
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Title: すくすくと。
2015.11.08

園ではこのくらいの時期になってくると、日々に目に見えて子供たちの成長というものを感じることができるわけです。しかしながら成長が子供たちにもたらすものは、明るい未来や希望だけではなく、はじめて湧いてくるぬぐい去れない負の感情であったりもするわけです。

4月に入園してきた年少の子供たち、入園当初はしゃべることのできない子なんてのはざらにいたわけですが、この半年でしっかりと自分の想いや意志を言葉で伝えられるようになり、今や、その「伝えることができるようになった自分」を存分に楽しみ、使い、日々の新しい感触を味わうように過ごしています。

はじめて友達に「イヤだ」と言えるようになり、「一緒に遊ぼう」と言えるようになり「自分が主役がいい」と言えるようになる子供たち、耳で覚えた言葉の感触を振り回すように言葉を使い、自分の発した言葉の反応や相手の表情を見ながらその影響の感触を身体で覚えていきます。

そこでは「ありがとう」や「どういたしまして」や「一緒に遊ぼう」「いいよ」のようなポジティブな感覚のつながりにわくわくするだけでなく、当然そこで想いや意見の食い違いにもぶつかります。時に「まだできないの?」「あっちいって」「今日は遊ばない」「きらい」そんな言葉に打ちのめされることもあります。

自分の言葉と感情が結びつくこと、そしてその自分の身につけた力の届く範囲を身体をつかって探っていく経験というのはこの時期の子供たちの大切な成長のひとつです。

まさに今の時期の園では、その成長が原因で様々な問題がおきます。それはいままで何となく成り立ってたものが、芽生え始めた自我と意志、そしてそれを覚えはじめの言葉と行動で表現することで自分の視野と世界を再構築しようとした結果だと思います。子供たちは毎日そこでいろいろな感情を体感して、そこに自分の意志を示し、おぼつかない言葉で落としどころを探して、そして精一杯がんばって心を順応させ強くなろうとしている最中です。

親は子供が家に帰ってくると、今日はなにしてきたの?どうだったの?お友達はできたの?なにかいやなことあったの?と根掘り葉掘りききたくもなるし、その中でたくさん心配もするし、不安になったりします。その気持ちは痛いほどわかるのだけど、でも3歳4歳の子供たちにとっては家を一歩出て、園にいき、集団の中で自分の居場所をみつけようと、意志をしっかりと示そうと、日々嵐のような日常の中で必死に戦っています。それは大人には想像できないくらいの勇気と元気を消耗します。いわんやそんな中で湧いてきた感情をすぐに言葉にすることなど実は大人でも難しかったりします。

そんな1日を過ごしてきた子供が、やっと心を休ませて安心できる家に帰ってきたんだと思えば、かける言葉もすこし変わるのかもしれないなと思ったりもします。そりゃ家ではぐずぐずしたくもなるよなと。

現場にいると子供たちががんばっていることが痛いほど伝わってきます。そして親といるときとは全然違う顔なのだということに驚かされます。

見守るってのはとても難しいことです。親になってみてその難しさがよくわかるようになった気がします。

そして成長というものがすごいスピードで渦巻く中で、そこで五感をフルに使い順応していく子供たちに取り残されないようにくらいついていきたいと、35歳のおじさんもおもうわけです。まだまだ若いもんには負けられんと。

あなかしこあなかしこ。


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Title: 何周も。
2015.11.08

想いなんてもので飯が食えるのかと。青臭いことを吐きそうになる自分自身に言い聞かせるような、そんな想いにとらわれていた時期もある。

しかしながらここにきて思うのは、想いで飯は食えるということだ。それは願えば叶うとか、思い続けたら想いは通じるとかそういう類の話ではなく。想いをカタチに結びつけていくことで想いは現実になる。その手順が少しわかってきたような気がするということ。

目に見える現実の多くは想いの上に成り立っていて、想いのない現実のカタチには力がない。

しかしながらその想いというもは水物で、外にあふれ出した瞬間から霧散していく。人間はその瞬間の想いを消えることなく凝固させたくて、あの手この手でそれをカタチにしようとするのかもしれない。絵に、行動に、歌に、建物に、それぞれの仕事に。

人は本来生きているだけでいろいろな想いを抱えていて、瞬間瞬間に心の奥底から吹き出さんばかりの想いがあふれているのだと思う。でもその多くは、揮発性の高いガスみたいに生まれた瞬間に消えていく。

その消えゆく想いの何%かを自分の人生の中にカタチとして完成させて、積み上げていく。

その積み上がったものが自分というものをつくるのだということが頭ではなく、お腹あたりのところでわかってきた気がする。

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Title: でば。
2015.11.03

ハダカデバネズミのことは何度もみているし、いつも気持ち悪いなぁと思いながら素通りしていたのに、こないだふとハダカデバネズミの生態がかかれたプレートの前で足を止めて読んでみた。

哺乳類には珍しい「真社会性」な生活を送っていて、女王がいて子供は女王しかうまない。交尾ができるのは数匹の雄だけ、そしてその下には兵隊係、子供を温める係、糞を掃除する係、巣を拡張する係、などなど細部にわたり専門の係が社会を形成している。中でも上下関係があり鳴き声も違う。そんで女王はひがな巣の中を走り回っていて、サボってるやつをどつくそうだ。

それにも一つハダカデバネズミは絶対に癌にならない。それがなぜなのか研究がされているそうだ。

それを知ってしまうと、いままです通りしてたハダカデバネズミの巣がとても興味深くみえてきて、しばらくハダカデバネズミを眺めていた。

でもいくらみても、まだハダカデバネズミをかわいいとは思えそうにない。

動物をみているといつも思うのだけど、首を長くしたり、鼻を長くしたり、キリンの祖先なのに足がシマウマみたいだったり、環境に合わせてこんなにパンチのきいた進化と個性を放つことはとても奇跡的なことで、それは宇宙の神秘と同じくらい謎だらけなのだなと。

生きるために、エサを得るために身体を変化させることもそうだけど、とても興味深いのは、身を守る方法の多様性とその進化の仕方だ。全身を針で覆ってみたり、堅い皮で覆ってみたり、くっさい液体を飛ばしてみたり、擬態してみたり、するどい牙を身につけたり、

それぞれの動物がそれぞれの方法で身を守り、時に身を守るために戦うわけなのだけど、たとえば核兵器みたいにどんな相手にも有効な一発すげぇ進化しちゃったり、チョバムプレートみたいな防御力を身につけちゃうってことがないってことの不思議。

全部の動物に他の種を一瞬で死に至らしめるトゲがついてれば話は早そうなのに、でもそうなると生態系のバランスは著しくおかしくなって、結果自身の種の保存すらも難しくなってしまうのだろうか。結局のところ、動物というのは自分の種の保存にきわめて有害な相手だけに適度な有効な手段を持っていることで絶妙なバランスを維持しているのかもしれないなと。

そのなんていうのだろうか、よくわからないけど間違いなくそこにある、絶妙なバランスみたいなもので維持されているこの世界はとても奇跡的なことなのだなと。

そしてそのバランスを著しく壊しているのはこの人間というほ乳類だけなのだろうなと。

そんなことをつらつらと思うわけです。










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