Title: きりまんじゃろ。
2014.04.25

結局の所、こ数ヶ月の自分の中の不燃感はきっと、世界はまだまだひろいし、わくわくするぜ、たのしいな!を感じる不足からくるものなのだ。

自分をぎりぎりまで引っ張りあげなくても、大抵をこなせるとこに腰をすえて、そこそこの評価に自己満足して、人生こんなもんか、幸せだなーとかわかったようなことをいうくそみたいなこの症状を、今後、井の中の蛙症候群と呼ぼうと思う。

つける薬はどこかに売ってるだろうか、インド辺りの薬局にいけば見つかるのだろうか。つまるところ、自分がつまんなくしてくるせに、そのつまんないが毒になってるんだ。でもつまらない原因は、身体にも心にも余力を残そうとすることを、もういい大人なんだとかいう理由に当てはめてこれでいいんだなんて安心してるちっさい器にあるんだ。

なんだ、結局いつものことで、ぐるぐるしてただけかと思ったらすっきりした。

日常がつまんないから非日常をもとめるのではなく、日常も非日常も同じようなラインにあるところで生きていたいと思いつつも、そんな勇気もないのだけど。

安穏とすると不安になって、不安になると安穏としたがるというこのせめぎ合いにはもういい加減疲れた。

まえにまえに。






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Title: マイナス。
2014.04.16

泣いている子どもを見ていて思うのだけど、この時期幼稚園の中で子どもの泣いている理由は、大抵は、寂しいか、不安か、もしくは痛いとか、眠いとか、暑いとか、お腹が空いたとか、おしっこをもらしたとか。そのくらいの範囲の中にある。

いわばその不快な要素を取り除いてあげれば、子どもは満足して表情もぐっとよくなるし笑顔になる。

子どもにとっての笑顔の条件というのは、いかに不快要素を取り除けるかと言うことであると思うし、その不快な要素の深度もそんなに深いものでもない。

でも、それが大人になると、不快要素の根っこも少し深くなる。でもそれが何で深くなるのかといえば、寂しいとか、不安だとか、そういう気持ちを気づかないふりをして、心の奥底に押し込むからじゃないかと思う。

押し込んで気づかない振りをしているうちに、いつのまにか根っこを深く張り巡らせてしまうのかもしれない。

それと、もう一つ決定的に大人と子どもで違うのは、大人というのは、仮に目に見える不快要素を取り除けたとしても、それだけでは飽きたらずに、もうそんなに不快でもないのに、より快楽を、より快適を、得なければ笑顔になれないときがあるということだ。

今の自分の苦をマイナスするだけでは飽きたらず、いかにプラスして、いかに自分になにかをのっけるのか、そんなことばかり考えてしまうのだ。

幸せっていうのは、なにも苦のないことをいうのだきっと。そしてその苦というもののほとんどは、自分がより何かを得たいと思う心が産んでいるんだろうな。

そしてなによりも厄介なのは、それがわかっているのにもかかわらず、もっともっとというこの心と、心を生み出す脳。






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Title: 杲
2014.04.15

無量寿 花咲くも 花散るも。


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Title: 箍。
2014.04.09

人をつくるものが環境だという事実は、ときにアドバンテージにもなるのだけど、それはここ一番で自分を縛り付けるタガにもなる。

そのタガは人としての魅力にもなりえれば、払拭できない苦しみにもなる。人が人に惹かれるときに、このタガの関係性というのはとても大きいように思う。自分のタガが誰かのタガをはずすことではずれるときに、人は強く人を想うことができるのかもしれない。自分がそこで必要とされることが。相手にとって必要なことであるときに、その利害は、意識的にも又は無意識的にも言葉や行動に表れるのかも知れない。

自分のタガがなんであるのかということは、どこまで認識して捕まえることができるのだろうか、そのひとつひとつを紐解いて掘り下げることはできるのかもしれないけど、それは果たして自分の都合のいい紐の解き方でないかといえばそれすらも疑わしい。

つまるところ。

環境によるタガという概念を思いつくということすらも、もう自分のタガの一つであるし、概念や規格にしばられずに、感じたままを心のままに自分の心にとどめて、表にだす、その繰り返しでできあがる世界こそが自分の生きる世界であるのだと、いわば諦め、そして明らめるしかできないのだな。

正しいか正しくないか。善か悪かなんていうものは、後付けでいい。

受けとめるしかないのだ。今を。


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Title: しょうろんぶん。
2014.04.07

物置の整理をしたのです。結構大がかりに。

そしたらでるわでるわ、おもひでぽろぽろ。

手書きで曲名の書いてあるカセットテープに、なんか変なサイズのシングルCDに、夜な夜なこっそり再生したVHSに、BOYSBE全巻など言い始めたらきりがない、ゴミみたいな、でもいまだ輝きを失わないがらくた達が次々に発掘されたのです。

傑作なのは写真です。ここにとても載せることのできないようなものから、自分だけではなく間違いなくここに写ってるあいつやこいつにとっても黒歴史に違いないであろうものがざくざくです。

そんな中、今回の大発掘でひときわ自分の心にささったのは、1枚の小論文の原稿用紙の中の、担任の国語の先生(辻先生)が添削欄に書いてくれていた言葉です。

「気軽に書いているいるようで、けっこうな小論文になってしまうのはすばらしい所だ。だが、つきつめて緊張感をもって考えつめないと小手先の小論文になってしまうことも事実だ。よく読み返して、よりよい文にしようという努力を怠っていることは、あいまいな句読点の打ち方をみてもわかってしまう。気をつけよう。内容は悪くない。」

頭をがつんとトンカチで殴られたような気持ちになりました。

これを読んで、この小論文を書いたことも、こういう言葉をかけてもらっていたこともすっかり記憶から消えていたのだけど、この言葉がいままさに自分の悪いところをそのまま指摘されたようで、17年を経て自分の心にささったきたわけです。まああの頃から悪いところが全然変わっていないということでもあるのだけど・・・

あの時の自分には、これを指摘されることがどれだけありがたいことなのかということは全然わかっていなかったけど、今になってこういう言葉をかけてくれる人がいたということはとてもありがたいことなのだと思った。

きっとあの頃の自分に言葉をかけられるとして、おい!ちゃんと話はきいとけよ!なんていったところで、うるせえ大きなお世話だくそおやじ。おれはお前みたいにはならないとかいわれてしまうのだろうな。

でもこうしてその言葉が時間をこえてささってくることもあるわけですね。

人生とはおもしろいものです。

句読点の打ち方が気になっちゃうぜ。



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Title: even
2014.04.03

「答えがない」と「全部が答えになりうる」「正解がない」と「全部が正解」は似てるようで全くの別物なんだきっと。

そんでもって、側にいてくれてありがとう。と側にいさせてくれてありがとう。はあくまでevenであることが理想なんだろうな。

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