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Title: ネバーランド。
2014.06.19 ある人がピーターパンになれたらいいのに、それが無理でも、せめてネバーランドに住んでいれたらいいのにと言っていた。 それを聞きながら、果たして来週ネバーランドに家でも借りることができて、引っ越しもとんとん拍子で進んだとしたら、自分は幸せになれるのだろうかと考えてみた。 否、自分はきっとネバーランドに行って、年をとらなくなって、妖精たちと空を飛び回って、毎日をおもしろおかしく過ごしても、いいところ1ヶ月くらいしたら日本の東京の自分の部屋で悶々としているときと同じような気持ちに舞い戻るに違いない。例えウェンデイが一緒だとしても。 ネバーランドで心から楽しんでいられるかどうかということは、いうなれば今を生きられるかどうかということなのではないかと思うのです。「今を生きる」というととても素敵な響きに聞こえるのだけど、それはそれは勇気も根性も覚悟も必要な事だと思うわけです。詰まるところ、自分にはその強さを貫き通せるかといわれたらその自信はない。 「今を生きている」ということは、今目の前にあることや、出来事や、感覚に100%を注ぎ込むこと。 ピーターパンに置き換えるのであれば、ネバーランドにむけて外に飛び上がるときに、上空は寒いのではないだろうか、航空機の経路を横切ってしまったりしないだろうか、飛んでるところを人にみられないだろうか、飛ぶ前にトイレにいっておいたほうがいいのではないだろうか、明日までに戻れないのだとしたら職場にメールでもいれておいたほうがいいのではないだろうかとか。 そんなことを考えたりしない、いや考えつきもしないということだ。考えつきもしないから空を飛べるのだ。 今の自分にはなにも考えずに空に飛び上がることができるのだろうか。ネバーランドに行く前にこんなことを考える人間がネバーランドにいったところで心から楽しめるはずなどない。 子どもが遊んでいるときに、目の前に水と泥があったとして、泥遊びしたいなぁ、でも着替えがないしやめとくかとか、爪の間が泥だらけになると困るからやめようとか、まだ月曜日だし、ここで出し切ると1週間持たないし今日は日陰で本でも読んでいようとか、そんなことは考えない。ネバーランドに子どもしかいないのはきっとそういう理由なんだろう。 転ばぬ先に杖はない。だから転ぶ。だから傷だらけの泥だらけ。 「今を生きる」というのは、転んで傷だらけになる恐怖との同居でもある。しかしながらそれでも子どもは毎日今を生きてる、それはなぜかといえば、そんな恐怖よりも世界はキラキラとした好奇心と刺激に満ちあふれているからで、池に氷が張ったという現実だけで界はバラ色に見えるからだ。 その世界がキラキラと見えるということは、経験の少ない子どもが一寸先は闇の大海原に踏み出すなによりの原動力であるということ。そしてネバーランドがとても素晴らしい世界に感じられるのは、その世界を作る人達の原動力があってこそなのだと思う。 転ばぬ先の杖があるから、安全に安定して人生を歩くことができるのだけど、その杖があるからこそ、時に自分でも気づかないうちに杖をうまくつけないと歩くことすらできなくなってることもある。 つまりは経験をすることで、かえって原動力を失っているという場合もあるということだ。その原動力がなければ、ネバーランドにいても東京砂漠にいても大差ないのだ。 それに、転ばぬ先に杖をついても思い通りにいかず、杖をつきたいのに現実はうまく杖がつけないこともあれば、うまくついていたはずの杖が他人に簡単にへし折られるなんてこともあるわけで、杖がそのまま苦に変わることもしばしば、それなのにまた同じ杖を迷いなく同じようにつこうとする。 大人になって経験をすることで、転ぶことも、傷だらけになることもすくなくなるし、そうしないと守るものもまもれないし、社会の中ではいきてはいけないので、転ばぬ先の杖をうまくつくことはとても大切のだけど、それは絶対的に正しいことではなく、ましてやそれが成長なのだと思い込んでしまうことで成長が止まってしまうということもある。経験して見える深度が深くなって、先を見通せるようになって、できることが増えるようになることで失っているものもある。 できないことが、できるようになることが成長なのであれば、できるようになることで、できなくなることが増えるということに気づくこともまた成長と呼べるのだと思う。 今ふと、思い出したのだけど、ジブリ美術館に行って、案内図もパンフレットもなくて、どこになにがあるかわかんないなぁと思っていたら、「迷子になろうよ。いっしょに。」と書かれていたのを思い出した。地図に頼っていると、迷子になることができなくなっちゃう、迷子にならないと見えないものもあるよってなことね。 付随して、人を惹きつける人の多くの人は、ネバーランドと現実世界をいったりきてるしているような人で、大人と子どもの視点の両方を熟知している人であることが多い。それをカリスマ性と呼ぶのであれば、カリスマ性というのは、いかに幼児性を内包しているかということになるのかもしれない。幼児性の中には、ほっとけないとか、力になりたいとか、そういう気持ちを呼び起こすものも含まれるわけで、なにかを大きく変えるときには、その力はとても重要になるということだ。 しかしながら、いつだってこの瞬間に命をかけてやるぜくらいの熱さを持っていたいという気持ちは健在だし、ここぞとばかりにそういうある種の熱量に心を奪われる姿勢は忘れまいぞ。 Title: 太陽族。
2014.06.06 自分は、理屈っぽくてめんどくさい人間のようだけど。 でも本当はすごく単純でシンプルで、理にかなってなくて、ちぐはぐで、支離滅裂なのに、それなのにまっすぐで前を見据える目とか、姿勢とか、そういうものに対峙したときに、もうそこに全部賭けてもいいって思ってしまうくらいに単純で。 でもそこに踏み出せない自分の脆さや弱さが、自己防衛として理屈や言葉に頼っているのかも知れないなと。 * ロックも仏教も、保育も誰かを想うことも。 そういう自分の中に落としたことを、一つに結べること、つながんないものはないと自信を持てるのが自分のいいところだった。そんでそれが自分の好きなことだった。それを結べるときにすごく幸せを感じるんだった。 おもいだした。 ありがとう。 よし、抜けた。 飄々。 Title: ぱふぉぱんす。
2014.06.06 自分が自分らしくいるということは、パフォーマンスを発揮するときにはとても大事なこと。その為には自分らしい状態がどういう状態か把握していなければならないわけで、それもこの年になると、自分がどういう状態であればパフォーマンスを発揮できるかということも、昔よりつかめてきたし、その状態に持って行くためのプロセスも、身体と心の持っていきかたもだいぶんうまくなってきた。 しかしそこで、大きな割合で作用してくるのが、自分の身を置く環境や状況で、それは直接関係ないようなことでも自分の心には意識的にも無意識的にも作用してくる。 自分の抱えるものはどんなことであってもパフォーマンスに作用する。それに厄介なのは、パフォーマンスを劇的に上げるカンフル的な要素は、そのままパフォーマンスを劇的に下げる要素も兼ね備えていて、そういうそれぞれの持ちうる特性を見極めた上で、自分がなにを抱えればいいのかを考えなければならないのかもしれない。 それがわかっていても、どうにもいつも同じパフォーマンスを保てないのは、自分の身をおく環境や状況というのは、不可抗力にも刻一刻と変化するし、それにつられて自分の心すらも刻一刻と変化するからだ。 誰かの心も。 世は無常。 何度も耳にたこができるくらいに聞いても、何度わかったように語っても、この至言を腹に落とすことはできない。 わかっているのに、無常である今や、無常である心や、無常である喜びや、そういうものをいつまでもいつまでも、もっともっとと切望して、流れゆくことに抵抗する。 その抵抗は、もう反射みたいなもので、意識下で行われているものではないということだ、本来は意識下で行われることなのかもしれないけど、それを意識で制御するのは極めて難しい。 人が限りある時間の中で生きて、限りある時間の中で、この命の充実を願うことは本能だ。その本能自身が人間を根底で苦しませ続ける。 本能的反射を意識で押さえ込めるかどうかもがいて、そしていざ押さえ込めないのであれば、その押さえ込めない心をどこかにいったんほおりだすしかないわけで、そのほおりだした先が、誰かなのか、何かなのか、神なのか、佛なのか、それがなんでもいいけど、いつか誰もが必ずどこかでそれをほおりだす作業をしなければ前に進めない時にぶつかるということだ。 それは今日かも知れないし、明日かも知れないし、そのきっかけは何も、大それたものであるかどうかもわからないということだ、桜が散ることであるかもしれないし、誰かを想うことかもしれないし、親になることであるかもしれないし、ほんの些細なことなのかも知れない。 腹の底に鉛のようなものをいつも置き忘れているような気持ちにぶつかって、どうしょうもないときに、その鉛の塊をどうするのかという命題を人間はずっと、何千年も考え続けて、考え抜いて、それでも未だアップデートを繰り返し続けている。 その現実こそ無駄に進化した厄介ないきものの背負った宿命なんだろうな。 そりゃ慈しみつつも悲しみたくもなるってなもんで。 |
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