Title: 金の卵
2013.01.31

今日、子どもたちの演じるジャックと豆の木を見ていて 金の卵を産む鳥がいたとして、ふと自分だったらその鳥を無条件にも欲しい!と考えるだろうかと思った。

たぶん、自分は、その鳥は何を喰うのだ?金の卵はどのくらいの大きさで中は空洞か?夜中に鳴いたりしないか?冬は外に出してても大丈夫なのか?匂いは?寿命は?卵は換金したらいくらになるだろうか。なんてことにひっかかって、自分なりに情報を整理して、考察をして、それを飼うことででるマイナスを消してからではないと手にしたいとは思わないし、どうしても不明瞭な部分があれば、それが最悪な方に転んだとしても対応できる策を思いついて初めて手にしたいと考えるのだろうと思う。

なんてめんどくさいのだろうか。自力の極み。

それでも最近は、自分の想像はあくまで想像の域をでないし、自分の想像の中で動いているうちは、いつまで経っても自分の枠を超えてはいけないし、おもしろい科学反応は起きない、その化学反応がないと人生は色味を失うことがある。ということも経験してきたので、ある程度出たとこ勝負でフルスイングすればいいのだと思いつつも、やはりめんどくさい自分がしっかりといるわけです。

しかしそのめんどくさい自分の習慣がもたらしてくれた嗅覚みたいなものが、自分を守ってくれているということも間違いないのです。なので、いままで培った嗅覚を大切に、その感覚を頼りつつも情報や想像に振り回されないようにしなければいけないなと思うのです。

兎にも角にも、子ども向けの童話やお話というのは、つっこみどころが満載で、なんでそんな安易に家に狼を入れるのだろうか、なんで鬼とか狼というのはみんな詰めが甘いのだろうか、それは何らかの過信からくるものなのだろうか。そこさえ直せば簡単に猿や犬やキジなんて小動物にやられる事なんてないだろうし、子ヤギなんか食べ放題なのに、そもそも鬼や狼にだって生きる糧や手段が必要なのだ。なんてことばかり考えてしまうのだけど、

結局の所、幼少期における子どもの心には、本当はよく考えたらどちらが善か悪かわからないようなことでも、理屈ではなく、とりあえず目に見えるわかりやすい絶対善、絶対悪の良識を持つということが大事なのだのだろうな、と思いつつも、やはり頭の片隅でその絶対善や悪をどこかで疑う心や視点もちゃんと持っているような人に育って欲しいとか思ってしまうのです。

光が差せば必ず影ができる。陰を生まない光はどこにもないのだ。

なんて。

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Title: 姿見
2013.01.25

僧侶は姿見なのかもしれない。

仏法はよく鏡に例えられるが、僧侶とはその仏法を自分の中にしっかりと落とし込んで、自分自身が姿見となっていくことが理想なのかもしれない。

目の前の人と対峙したときに、相手が姿見を通して、自分のネクタイが曲がっていたり、鼻毛が出てたり、襟に皺がよってることに気づいて、それを自分自身で正せるようなきっかけになりうるということが大事なのではないだろうか。

姿見は、決して、そのネクタイおかしいよ、きっとあなたにはストライプの方がいいよとは言わないし、鼻毛がでてるから切ってあげるようなこともしなければ、その襟、皺がよってるよ、クリーニング屋変えた方がいいよともいわない。

どこまでもニュートラルに、ただありのままに相手の姿を映しだすだけ。

教典の中に書いてある言葉をかみ砕いて自分のものとして、時に引用して、どうやったら相手を映し出せるのか考えるということが待機説法ということであり、縁無き衆生は度し難しという言葉の意味なのかも知れないし、八万四千の法門がある所以なのかもしれない。

ただそこで自分への戒めとして、言葉にするのが難しいのだけど、誰かを映しだすということは、これみよがしに鏡を相手の鼻先に突きつけるのとも違うし、頼まれてもいないのに、腕を引っ張ってきて鏡の前に立たせるのとも違う。あの手この手で合わせ鏡や拡大鏡を駆使して、相手のアラを探すように鏡を使うのも違う。

相手を映しだすという時に、自分がすべきはひたすらに鏡を磨くことだけでいいのだと思う。ひたすらに鏡を磨いて、歪みがないか、曇ってないか、その点検を繰り返すことこそが、いつか鏡の前に立った人を映しだすということなのだと思う。

受動的な行動も突き詰めていけば、それは能動的な行動になる。

鏡の前に人を立たせることが教化なのだとしたら、自分は教化なんかしたくないし、そこに使う頭と時間を違うことに使いたい。

通りすがりの人がふと立ち止まった時に、たまたまショーウインドウに映った自分のすがたにはっとして、身を正して、また歩き去っていくくらいのきっかけで、それはもう十分に法縁なのだと思う。


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Title: こころもち。
2013.01.22

知らない色や、空や、匂いや、空気や音にさらされて、心に血がかよってくるような感覚はいつ味わっても心地がいい。

心というものが一体どんなものなのかわからないのだけど、そこにはきっと心臓や腕や足や、頭みたいに血が通っているのだと思う。血流がよくなって身体が温まるように心もじわりと熱を帯びてくる。

人生は些細なことの繰り返しだし、積み重ねだし、時にその意味を問いて、その問いに飲み込まれたりもするのだけど、それでも同じ笑顔で笑う。

決して無くならないものなんてなのだけど、それでもこうして笑うということ、それを思い出すことはできる。

そんな確約もない不確かなものにこそ、永遠の営みが凝縮されているのだと思う。

*

世界は心持ちで変えるのだ。



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Title: 皆苦。
2013.01.22

仏陀の中にも苦はあったけど、苦しくはなかった。

一切皆苦っていうのは慈悲に満ちたとても温かい表現だという風にも解釈できるのではないだろうか。苦が既存設定なのだから、それははじめから幸せの対極ではないという認識をもつことで、苦は雨が降ることのように変えようのないことなのだと気づかされる。

そこで傘を差すのか、濡れることを気にしないのか、もしくは晴れだけを待ち望み、家にこもるのか、どうありたいかを明確にしていくのが仏道であると思う。

仏陀の中にも苦はあったけど、苦しくはなかった。

というのはつまりは毎日土砂降りだった、けど全然鬱々としなかった。なぜなら雨がふっているだけだからのようなもので。

一切皆苦の「苦」は、自分にとって嫌なことを指す「苦」ではない。という部分を掘り下げていかないと、慈悲がみえてこないのかもな。むろん本願も。



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Title: 30代よ何かを抱け。
2013.01.16

MISAWAホームの広告にどきどきした。

*

30歳、坂本龍馬は薩長同盟のために奔走した。

31歳、ガウディはサグラダ・ファミリアの設計に着手した。

32歳、ゴッホは浮世絵に出会いインスピレーションを得た。

33歳、与謝野晶子は愛する夫を追いかけてパリをめざした。

34歳、ナイチンゲールは看護婦として戦場に向かった。

35歳、リンカーンは家を買って新生活をはじめた。

36歳、シェイクスピアは「ハムレット」に情熱を注いだ。

37歳、夏目漱石は、作家デビューを果たした。

38歳、ベートーベンは難聴を乗りこえて「運命」を発表した。

39歳、マゼランは世界一周の航海に出発した。

30代よ、何かを抱け。

*

30代の残り7年がすごく楽しみになる。


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Title: 嘘をつくこと。
2013.01.10

嘘をつくということ。

子どもたちがあからさまに嘘をつくということはよくある。

叩かれてもいないのに叩かれたとか、本当は自分にできないことをできるとか、悪いことをしてしまったのにしてないとか。

子どもと関わる上で、このような嘘にどう向き合うかということはとても大切な事で、現場にいて感じるのは、子どもが嘘をつくときというのは、その子を知る上でとてもチャンスだということ。

あからさまに嘘をついている子どもをみると、ついどうしてそんな嘘をつくのか、平気で嘘をついていると嘘つきの子どもになってしまうから、それだけは厳しく注意しなければ、親であれば、どうしてこんな子になってしまったのか、育て方を間違ったかなどと思ってしまったり、つい嘘をついたということにばかり目がいってしまうのだけど、幼少期につく嘘のほとんどはここで直さなければ平気で嘘をつくようになってしまうなどと思うまでもないようなものだし、、ずるがしこく、人を陥れるような類のものではないので、たいして心配するようなことではないと思う。それよりもそこで大事なのは、なぜそんな嘘をついたのかということにしっかりと目を向けることだと思う。

なぜ叩かれてもいないのに叩かれたというのか、なんでできないことをできるというのか、どうして目の前で悪いことをしたのに、平気でしらをきるのか。

そこにはたくさんの子どもからの想いがこめられていて、それは「もっと自分をみてほしい」とか「さみしい」とか「ほめられたい」とか「おこられたくない」「認めてほしい」の裏返しであることがほとんどで、その原因をつくっているものはなんなのかということを考えなければならない。

その原因は親にあるかも知れない、友達関係の中にあるかもしれない、弟や妹が生まれたことかも知れない。いづれにせよ子どものつく嘘はその子のおかれてる状況や環境を映し出す鏡であるし、むしろ嘘という形で、表にサインがでてくるほうがありがたいことなのだと思う。

そのサインを見落とさずに、しっかりとひろうということが「育てる」ということなのだと思う。これは子育てに限らず「育てる」ということはすべて、サインを見落とさずにしっかりとそれをひろって紐解いていくということなのだと思う。

幼児教育と仏教がとても似ているなと感じるのはこういう部分で、仏教のいう因果とはまさにこういうことなのだと思う。因果を考えるということの矢印を子どもではなく自分自身に向ければそれはそのまま仏教になる。

なぜ苦しいのか、なぜ妬むのか、なぜ嘘をつくのか。

自分を自分たらしめるものはなんなのか、それを紐解いて、そしてその自分とどう向き合っていったらいいのかということが「教え」ということになるわけで、そのための方法論が教典にかいてあるわけで。

その中で、最近、教典というのは教科書のように、教典を読んで自分の生活に照らし合わせるのではなくて、まず自分の生活を見直してみて、そこから湧いてきた疑問や苦しみをしっかりと認めた上で、教典の中にその解決策を探すいう順序ではなければならないのだということを強く感じるようになった。

微妙な違いなのだけど、教典はマニュアルじゃないし、漠然とその通りにしたら何かが変わるかといえばそういう類のものではなくて、それはあくまで過去の先人達の生き様や思考の集大成であり、例題集であるわけで、自分の中の問題点はなんなのか、いま自分をとりまく環境はどうであるのか、それを考えるということが前提になければなんの意味もなさないのだと思う。そこから自分はどの教えを選択していくのかということにも繋がっていくのだろうと思う。

独楽を回して窓を割ったり、朝からけん玉をしながらもたまにはちゃんと考えているのです。

遊んでいるばかりではないのです。

というサイン。




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Title: けん玉。
2013.01.09

32歳最後の日はとても楽しくお酒を飲めて、意気揚々と家路についたわけです。

帰り道で、幸せっていうのはこういうことだなと思ったわけです、こういうことというのがどういうことかといわれれば、それは言葉で捕まえておくには儚く脆すぎるし、それがどういう感触で、どういう匂いで、どういう形をしているのかも定かではないのだけど、でも間違いなく今お腹の中に渦巻いている感覚を幸せというのだろうという手応えをしっかりと感じたわけです。

縁というのはとても不思議で、とても温かく、ときに無情であるのだけど、その中で生きていくことをお腹で受け止めて、その現実の中に腰を据えることがすなわち幸せを捕まえることなのではないかと思います。

昨年の誕生日には、スコップとガイガーカウンターを片手に、園庭の数値をはかっては、数値の高めなところの土を掘り返していたわけですが、33歳になった今日は、朝から子どもたちとけん玉をしていたわけです。

たいした技も出来ないのに、大人特権で皿の上に球をのせるだけで、喝采と羨望のまなざしを受けられるという、このアドバンテージを存分に享受して、朝から気分よくなっているわけです。昨日は新年早々、子どもたちと駒をまわしていて、窓ガラスを割るという失態をおかしてしまい、とても落ち込んでいたのだけどそんなことも忘れるくらいです。

さて今年はどんな1年になって、どんな縁があるのかとても楽しみです。


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Title: 8日。
2013.01.08

明日には33歳の誕生日がやってくる。

坂本龍馬は33歳の誕生日に凶刃に倒れたそうです。幸い自分は命を狙われることもなく平穏無事に誕生日を迎えるのだろう。

例年のごとく32歳分のブログを読み直してみると、昨年は「幸せ」とはなにかということを強く考えさせられた1年だったように思う。

おじさんたちがみんな亡くなってしまって、今年のお正月ははじめて、おじさんたちの独りも居ない正月を迎えたこともあるのだけど、最近いままでにもまして無常ということを強く感じる。

昨年の暮れ、中村勘三郎さんが亡くなった時に、坂東三津五郎さんが弔辞の中で、「肉体の芸術って、つらいね。すべてが消えちゃうんだもの。本当にさみしい」といっていた言葉が妙に心の中にこびりついた。

その言葉を何度も反芻する。

今、自分の考えていることや、人生をかけて積み上げてきたことや、誰かと共有してきた時間とか、自分と誰かにしかわからないようなちっぽけな約束とか言葉とか、その瞬間に間違いなくあった安心感とか、まとわりつくような温かさとか、誰かにとったら既製品と代わり映えしないがらくたのようなものでも、それはまさに「自分」をつくる要素であって、その要素が渦巻いてひとつになって「自分」そのものになる。

その自分もいつか跡形もなくなる。今も遠い過去になるし、たわいもない今日は、そこに1日があったという事実すら跡形もなく忘れ去られる。

あとどれくらい生きていられるかわからないけど、これから先、何年か何十年かたって自分の人生を振り返った時に、「今思えば32歳の頃の自分が全盛だったのかもしれない」と思えるくらいにこの1年を十分に過ごせたと思ってる。

そして、充実していると思えば思うほどに、今は「幸せ」なのだけど、刻々と今が過去になっていくことに漠然と不安になったり、いつまで続くかわからない自分自身に怖さを感じたりする。そう思えば思うほどに、「幸せ」というものの本質が浮き彫りになってきて、「幸せ」にとっては何が必要で何が不必要なのかということがはっきりとわかったし、色々な場面での選択に迷いが少なくなったように思う。

自分がそういう心境になってきて、改めて仏教の役割や宗教の役割ということもよくみえてきた。

こういうのをメメント・モリというのだろうか。

ありきたりなのだけど、今は、いつ来るのかわからないその日までの時間を丁寧に過ごしたいと思ってる。強烈に今を、1年ではなく、1ヶ月を、1週間を、1日を、1時間を、1分を、1秒を。その感触を手に、目に、心に感じて過ごしていきたいと思っている。

この32年間もっちゃもっちゃと、いろんなことをこねくり回して、抹香臭く、理屈っぽく、どうしょうもない堂々巡りをしてきた結果に、行き着いた帰着点が、「日々を丁寧に」なんて、あまりにありきたりで、手垢のついたシンプルな表現なのだけど、今その言葉に重さと質感を感じている。

そんな32歳最後の日。

まえにまえに。

さて。33歳。

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Title: 2013。
2013.01.03

近所の公園であそぶ子どもらをぼんやりとながめてたら。

生きることは食べる事で。生きることは泣くことで、怒ることで、笑うことで。生きることはおしっこもらすことで、はしゃぎつかれることで、変な替え歌歌うことで。生きることは朝起きて、夜ぐっすり眠ることなんだなと。

そこになんの意味も意義もない。そして生きていない瞬間もない。

生きるというのは本来そういうことなんだよなとか思った2013年のはじまり。

今年も足下を再確認、前に前に。

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Title: 2012〆。
2013.01.01

2012年の最後に、新幹線の中で幸せってなんだろうかということを考えた。

そこで思ったこと。

どこかの国では、銃が乱射されて多くの人が犠牲になり、どこかの国では、なにが本当でなにが嘘なのかもわからない政治がまかり通ってるかと思えば、世界が滅亡するということがまことしやかに広まっては、たくさんの人が簡単に振り回されるようなそんな世界のなのだけど。

幸せというのはいつだって、どんな過酷な状況の中にですら見つけることは出来る類のものだ。

幸せは認識の中にこそ生まれる極めて流動的なもので、その不確かな連続性こそをまさに幸せと呼ぶ。

幸せは決して状況や環境によってもたらされるものではなくて、幸せは今への強烈な認識だ。そしていつだって結果論であって、決して予期して訪れるものではない。

今日もどこかで誰かが死んで、今日もどこかで誰かが生まれている。その事実こそが幸せであり、そのまっただ中にいる自分を掴むことこそがまさに幸せを掴むことなのだ。

そして、人はつながりの中でしか生きられないけれど、そのつながりによってこそ死んでいくのだという現実に立ち向かうということこそが幸せなのだ。

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