Title: 法要。
2013.05.21

大きな法要に出仕すると思うのだけど、満堂の本堂で何百人もいるような法会でしか湧いてこない高揚感とか、一体感とか、何とも口で説明するのは難しいのだけどとても他では体感できないような感覚というのがあって、その体感は「宗教」というカテゴリーの中ではとても大切な事だと思う。

結讃が繰上位上曲とかで、御調声の声が響いた後にそれに呼応するように、附膚から外陣が一斉に発声する瞬間のあの教本がびりびりする感じとか、満堂の本堂が一斉にお念仏をあげる瞬間の地鳴りのような感じとか、その場にいないと感じられない空気感と、なんかよくわからないけど、それに包まれていることの心地よさみたいなものは、言葉では絶対に表現できないし伝えられない。

なんかよくわかないけど、お念仏の力のすごさというものを目に見える形にするとこういうことなんだということが腑に落ちる気がするのだ。なんか頭でちまちまかんがえる範疇をずどんと飛び越えてくるような凄味すら感じる。

その体感がなに。といわれればそれまでなのだけど、頭で理解したり、覚えたり、勉強したりするのではなくて、よくわからないけど自分の中にある何かが揺り動かされる体験というのが確実にあるということを知ってくか知っておかないかということだけで、物事に対する見方は大きくかわるのだと思う。

これは別に宗教でしか体感できないわけではないし、自然をみて心打たれるのも、太陽に手を合わせたくなるのも同じところからくるのだと思うのだし、それでも十分、なにも必ずしも宗教に向き合うべきだというつもりはないし、むしろ仏教というテキストを使わずともその視点、感覚を持っていられるのであれば、仏教なんか必要ないと思う。

お寺や僧侶は役に立たなければいけない。社会の中に価値を見いださなければいけないということが声高にいわれる昨今、そういわれる度に感じるのだけど。

いままでお寺も、僧侶も長い時間をかけて、儀式、作法、法式、声明というものをしっかりと守ってきている。それははっきりいってしまえば社会の役にはなんにもたたない。もしかすると僧侶がみんなでゴミを拾う方がよほど社会役には立つかも知れない。

でも今のお寺や僧侶の基盤を築いてきたそういう土台の部分、その一つ一つをしっかりとこなすこと、意味がないと片付けづけないで、しっかり向き合うことでしか見えてこないものは確実にあるのだと思う。

そこに付随して、よく僧侶は説明責任を果たすべきだと、自慰のような法要をしても意味がないといわれることがあるのだが、そもそも儀式も法要も、ましてや教典にかかれていることも、簡単に口で説明してわかるようなことじゃない。ましてや、頭で理解をしようと思っている人に言葉で説明するということはかえって本質から遠ざかるような気すらする。

やはり仏陀のすごいのは、体感を共有させるための方法論を自分の中で確立させて、それを言葉をつかい、理解をさせることではなく、体感させるところへ持って行くための道筋を方便をとおして示したということなんだろうと思う。

頭や理屈でまかり通るのが社会ならなおさら、人はいつか理解や理屈では決して超えられないところにくると教えるのが仏教、宗教の役目ではないかと思う。

なんでもそうだけど、感覚とか体感とか、そういう理屈でわからないことを役にたたないものだと片付ける、もしくは頭でわかることだけを優先させるから、人間大事なものがわからなくなるのに、僧侶がそれを先導してたら本末転倒。

ただお念仏が無碍の一道というのは、ぐるっと一周して、一緒にお念仏してみよう。そこで「それ」を感じてみようという風にとらえてもいいのかもしれない。

その「それ」がみえないと仏教は表面をなぜるだけで終わってしまうような気がする。


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Title: 境界。
2013.05.16

自分がどこにいるのだろうかなんてことを思うことがあるのだけど。

でも自分はどこにでもいるのだ。

花を愛でるも、下世話に馬鹿笑いするのも、嘘をつくのも、事実に憤慨するのも、シンプルに笑うのも。

自分が自分でない瞬間なんかない。本当の自分を捜すのは、今の自分をしっかりと捕まえていない証拠だ。

言葉、身体、環境、自分と世界を隔てているのは、物理的な境界ではない。

世界は境界によって隔てられているのではない、心によってのみ隔たりをうむのだ。




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Title: いっぽふぉう。
2013.05.15

twitterをやるようになってから、思いついたことをさくさくつぶやくので、熟成させる時間が著しく減って、悶々とする時間も著しく減った。それが良いのか悪いのかわからないのだけど、そういう時間が減ってみると、改めて真っ白な画面に向かって、頭の中にあることを文字に変換して、こそげ落とす作業は、自分にとっては自分と向き合う大事な時間で、頭を整理する上でもとても大事で、なによりも熟成させるということはとてもここちがよい時間だったのだということに気づかされる。

twitterのいいところは無駄なものをそぎ落として、端的に自分の想いを伝えられることなのだけど、きっとtwitterで省かれてしまう無駄な部分というものは味とも呼べるし、個性とも呼べるし、独自性でもあるのかもしれない。

それがあることで生きてくるものというものもあるのかもしれない。肉も熟成するとやわらかくなるし。

でもそう考えると、茶道のお手前というのは無駄なものがそぎ落とされているのだけど、そこにはちゃんと味も個性も独自性もあるのだよな。きっとそれはいま自分の見えているものの数段上の境地だからなのだきっと。

型に血が流れて初めて形になるというやつですかね。

書きたいことが明確にあって、それをわかりやすく文章化して書く文章と、今のようになにも考えずに、思いつくままに文字をくりだすような文章では書くときに使ってる部分が違うような気がする、前者は頭のスイッチのいれないと書けないのだけど、後者は頭のスイッチが入ってると絶対に書けない。

このスイッチがはいってるとできないという感覚には書くときだけでなくて、話をするときや、コミュニケーションをとるときにも時々であうことがあるのだけど、スイッチを入れるという意識は同時に頭や心にリミッターをかけるのだ、スイッチなんてものはそもそもどこにもない。

やる気スイッチはさがしたってみつからないし、さがしてみつかるスイッチではよくて自分の身体の大きさくらいの力しかだせないのだと思う。

自分の身体は1つの目安で、そのラインが限界値にみえるのだけど、頭も身体も入れ物に過ぎなくて、その中にある心や思いは、身体の稜線をはるかにこえてしかるべきものなのだ。

書いてて思ったが、やはりこちらで書いている文章からtwitterへ切り出すことの方が、twitterで切り出されてきたことをこっちでまとめるよりも格段におもしろい。

自分にとって散歩をするのと書くのはとても似ている。書き始めるときにはどんな言葉がでてくるかわからない、歩いているときはどこにつくのかわからない。書いてるうちに歩いているうちに、スタート地点では想像も出来なかったものに出合う可能性を秘めている。

そういえば、今日絵本を読んでいて思ったのだ。

どうしてあんなに狼は嫌われるのだ、いつも目の敵にして痛い目にあうのだ。見た目が怖いのは仕方ないが、いつも森の仲間からはつまはじきにされて、まともな人格形成が出来るはずがないし、森の仲間が助け合い、分け合い和気藹々と暮らしているコミュニティにはいれないのだから、奪うしかない、脅すしかない、つまはじきの狼も家族や子どもを守る為なら、豚だって赤頭巾だって喰らうかも知れない。

なんだろうか善と悪の概念を子どもの頃に教えるのはとても大事。だけどわかりやすい形で善悪を色分けしてしまうと、その先を考えることをしなくなってしまうし、実際世界には明確な善も悪も1つもないのに、明確にわかりやすい善悪の構図を鵜呑みにするようになってしまうのではないかと心配になってしまった。

自分の目からみた善しか信じられないと、平気でまた人身事故かよ、まじ勘弁とか言ってもなにも感じなくなってしまうのだ。本当にまじ勘弁なのは人身起こした張本人だ。迷惑者の狼のことはしらないってか。その口で世界平和とか、思いやりだとかを声高に叫んだところで違和感しか感じない。

それと備忘の為に。

本当に美味しいものはよく噛まなきゃわかんないのにな。かきこむように食事をしてると絶対にわからない味があるのだということが少しわかったきがした。










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Title: ハンモックチェア。
2013.05.10

遊んであげるのと一緒に遊ぶということの違いが頭じゃなく体感としてわかると子どもと関わるのはぐぐっと面白くなるし、いままで見えなかったものがずずっと見えてくるように思う。

ハンモックチェア買うた。

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Title: 餅
2013.05.01

はるうららかな日、桜の下でもちをつく。臼に落ちる花片こそがわびさび。そんな心穏やかな時間と陸に打ち上げられた船とのコントラストがとても印象に残った。

感じたことをそのままに。

とてもいい餅つきだった。日差しも風も時間も。すべてがとてもかみ合っていて、意図的には決して作れない時間、いつまでも続いて欲しいと思うけれど終わることでこそ完結する時間。

一期一会という言葉をじわじわとお腹で感じることができた。やっぱり自分は人と関わっていることが好きなのだと思う。楽しかったしありがたかった。

被災者という言葉ができてから、意識的にもしくは無意識的にも被災者と、被災者じゃない人という線引きがしっかりとされてしまって、知らず知らずのうちにそのカテゴリーわけが、それぞれの立場の中にバイアスをかけてしまっているように感じた。

時に共通意識のバイアスをかけないと人はまとまらないから、それは絶対に必要。家族、友人、恋人、夫。被災者。親子。大人。子ども。日本人。なんでもそうだ、バイアスかけないと人は自分すら認識できない。でもバイアスをかけた時点で、世界は最大公約数にくくられてしまって、自分と他者は分断されてしまって、その壁や枠や、境界線を越えることを忘れてしまう。

その超えられない境界やカテゴリーこそが人間の深い部分で苦しみに変わる。だからこそ、そこに楔をうてなきゃいけないし、そのバイアスを意識してぶっ壊さなきゃ苦しみの根源は見えないし、根源が見えなければ戦えない、前に進めない。

苦を生み出した直接の原因はいつだって不可抗力な外的な要因だし、そこにまちがいなく大小もあるのだけど、多かれ少なかれそれを抱えずに生涯を終える人なんていない。悲しみから立ち上がるのも、苦しみをかみしめるのも既存設定、削除できないプリインストールされたくそアプリケーションみたいなもの。

気仙沼から戻ってきて、東京の朝の通勤ラッシュの人たちをみてると、ここもまた東京砂漠なのだなと感じるし、家に戻って悲しみに打ち震えてたり、どうしょうもない不安に押しつぶされそうになる要因はなにも震災だけが運んでくるわけではないのだと思う。

今回宿泊した気仙沼の宿の壁に毛筆されていた言葉「311、海はすべてを奪っていった。しかし今、海はまた何もなかったように穏やかな顔をしている。いったい海は何を伝えたかったのだろうか」というようなことが書かれていた。

その言葉に、そこにいる人達の心のあり方、生き方が凝縮されているように感じた。

もしかすると人間には大きすぎる苦は自己防衛的に小さく、逆に小さな苦は自己肯定のために大きくして、ある一定の質量の幅に自己調整する機能が備わっているのかもしれないということを感じた。時々癌のように、その機能が過剰動作してしまうと心のバランスを崩してしまうのかも知れない。

ともあれ、そんなことを思いながら改めて、これからも自分の取り扱い説明書をしっかり書き込む作業に邁進しようと思った。たぶん自分にできることはそれなのだと思う。最近になってやっとその作業の意味や、それがどこに繋がっていくのか、道筋が少し見えてきた気がする。まえにまえに。

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