Title: 承認。

今年は承認ということについてよく考えた。

他人からの承認、社会からの承認、親からの承認、家族からの承認、そして自己承認。

「承認を得る」ということが人に与える影響や、自分に与える影響のメリットとデメリットを自分なりに考えて、実践してきて、いままで見えなかったことやわからなかったことにだいぶ整理がついたし、いままで何となくこなしてきた自分の中のルールみたいなものがはっきりと体系化できたことで、より考え方に厚みがでたような気がする。

承認の持つ力は大きい、人間は人から承認されることではじめて、自己承認できる生き物なのだということがつくづくわかった。

そこに付随して、「居場所」というのも一種の承認で、自分がいてもいい場所があるとか、誰かが必要としてくれる場所というものが与えてくれる力は大きい。

「お寺」ということを考えたときに、この承認ということはとても重要な役割を果たしていて、承認の扱いに長けるということは僧侶の資質としても1つ大切な事のような気がしている。

承認を制するものはすべてを制す、といっても過言ではないと思えるくらい、自分にとっては大きな命題の1つになった。これからもそれについては考察を重ねていきたい。

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承認の中でも、自己承認というのは厄介なもので、他人からの承認によってしか自己承認できないようでは、それは本当の意味での安穏、安住には結びつかないということだ。その流れをどこで断ち切るかということはすごく大きな課題であるように思う。

特に、ここ最近、あちらこちらでコミュニティが希薄になって、ネットが既存設定になった世の中においては、絶対的に承認が枯渇しているように感じる。

SNSを通じて評価を得れば得るほど、安心する自分がいる反面、そこで評価されている自分と現実との些細なギャップがうまれ、その歪みはさらなる承認欲求へと繋がる。まるで中毒症状みたいに。

本来、承認というのは、イイネ!とか、共感だけを差すわけでなくて、時に同じ土俵で意見をぶつけあったり、口うるさい人の言葉に耳をふさいだり、へこんだり落ち込んだり、そういう関わりの中で相手の存在を認めたり、認めてもらったりしながら育まれてくるようなものなんだろうと思う。好敵手だって大切な承認の1つでもある。

そういうつながりの中で得る承認は、体感の伴うものであり、体感が伴った承認を得ることではじめて自信というものが生まれるのではないかと思う。

ただ大前提として、注意しておかなければならないのは、完璧な承認なんてものははなから存在しないということ。

他人が自分が100%理解するなんてことは不可能だし、それが親であれ子であれ、大好きな人であれ親友であれ、承認というのは、自分にとって都合のいい事実をすっぱぬいているにすぎなくて、そもそもがそういうものであるという自覚は大切なのだと思う。

承認は間違いなく動力になる。今年を振り返ってみて、今年は自分自身、承認よってすごく力をもらったし、承認をエネルギーにしなければ人生の荒波を乗り越えられないときというのは間違いなくある。

でもそれはあくまでカンフル的な要素であって、カンフルとはあくまで+αであって、普段歩くときの動力までも承認によって得なければならないような所に陥ってしまっては駄目なのだ。

自戒を込めて。

つくづく。

結局人生に目的なんかなくて、全部手段なんだよな。

POSTED @ 2012.12.14 | Comment (0) | Trackback (0)

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