Title: ネバーランド。

ネバーランドに行ったら幸せになれるかどうか。

ある人がピーターパンになれたらいいのに、それが無理でも、せめてネバーランドに住んでいれたらいいのにと言っていた。

それを聞きながら、果たして来週ネバーランドに家でも借りることができて、引っ越しもとんとん拍子で進んだとしたら、自分は幸せになれるのだろうかと考えてみた。

否、自分はきっとネバーランドに行って、年をとらなくなって、妖精たちと空を飛び回って、毎日をおもしろおかしく過ごしても、いいところ1ヶ月くらいしたら日本の東京の自分の部屋で悶々としているときと同じような気持ちに舞い戻るに違いない。例えウェンデイが一緒だとしても。

ネバーランドで心から楽しんでいられるかどうかということは、いうなれば今を生きられるかどうかということなのではないかと思うのです。「今を生きる」というととても素敵な響きに聞こえるのだけど、それはそれは勇気も根性も覚悟も必要な事だと思うわけです。詰まるところ、自分にはその強さを貫き通せるかといわれたらその自信はない。

「今を生きている」ということは、今目の前にあることや、出来事や、感覚に100%を注ぎ込むこと。

ピーターパンに置き換えるのであれば、ネバーランドにむけて外に飛び上がるときに、上空は寒いのではないだろうか、航空機の経路を横切ってしまったりしないだろうか、飛んでるところを人にみられないだろうか、飛ぶ前にトイレにいっておいたほうがいいのではないだろうか、明日までに戻れないのだとしたら職場にメールでもいれておいたほうがいいのではないだろうかとか。

そんなことを考えたりしない、いや考えつきもしないということだ。考えつきもしないから空を飛べるのだ。

今の自分にはなにも考えずに空に飛び上がることができるのだろうか。ネバーランドに行く前にこんなことを考える人間がネバーランドにいったところで心から楽しめるはずなどない。

子どもが遊んでいるときに、目の前に水と泥があったとして、泥遊びしたいなぁ、でも着替えがないしやめとくかとか、爪の間が泥だらけになると困るからやめようとか、まだ月曜日だし、ここで出し切ると1週間持たないし今日は日陰で本でも読んでいようとか、そんなことは考えない。ネバーランドに子どもしかいないのはきっとそういう理由なんだろう。

転ばぬ先に杖はない。だから転ぶ。だから傷だらけの泥だらけ。

「今を生きる」というのは、転んで傷だらけになる恐怖との同居でもある。しかしながらそれでも子どもは毎日今を生きてる、それはなぜかといえば、そんな恐怖よりも世界はキラキラとした好奇心と刺激に満ちあふれているからで、池に氷が張ったという現実だけで界はバラ色に見えるからだ。

その世界がキラキラと見えるということは、経験の少ない子どもが一寸先は闇の大海原に踏み出すなによりの原動力であるということ。そしてネバーランドがとても素晴らしい世界に感じられるのは、その世界を作る人達の原動力があってこそなのだと思う。

転ばぬ先の杖があるから、安全に安定して人生を歩くことができるのだけど、その杖があるからこそ、時に自分でも気づかないうちに杖をうまくつけないと歩くことすらできなくなってることもある。

つまりは経験をすることで、かえって原動力を失っているという場合もあるということだ。その原動力がなければ、ネバーランドにいても東京砂漠にいても大差ないのだ。

それに、転ばぬ先に杖をついても思い通りにいかず、杖をつきたいのに現実はうまく杖がつけないこともあれば、うまくついていたはずの杖が他人に簡単にへし折られるなんてこともあるわけで、杖がそのまま苦に変わることもしばしば、それなのにまた同じ杖を迷いなく同じようにつこうとする。

大人になって経験をすることで、転ぶことも、傷だらけになることもすくなくなるし、そうしないと守るものもまもれないし、社会の中ではいきてはいけないので、転ばぬ先の杖をうまくつくことはとても大切のだけど、それは絶対的に正しいことではなく、ましてやそれが成長なのだと思い込んでしまうことで成長が止まってしまうということもある。経験して見える深度が深くなって、先を見通せるようになって、できることが増えるようになることで失っているものもある。

できないことが、できるようになることが成長なのであれば、できるようになることで、できなくなることが増えるということに気づくこともまた成長と呼べるのだと思う。

今ふと、思い出したのだけど、ジブリ美術館に行って、案内図もパンフレットもなくて、どこになにがあるかわかんないなぁと思っていたら、「迷子になろうよ。いっしょに。」と書かれていたのを思い出した。地図に頼っていると、迷子になることができなくなっちゃう、迷子にならないと見えないものもあるよってなことね。

付随して、人を惹きつける人の多くの人は、ネバーランドと現実世界をいったりきてるしているような人で、大人と子どもの視点の両方を熟知している人であることが多い。それをカリスマ性と呼ぶのであれば、カリスマ性というのは、いかに幼児性を内包しているかということになるのかもしれない。幼児性の中には、ほっとけないとか、力になりたいとか、そういう気持ちを呼び起こすものも含まれるわけで、なにかを大きく変えるときには、その力はとても重要になるということだ。

しかしながら、いつだってこの瞬間に命をかけてやるぜくらいの熱さを持っていたいという気持ちは健在だし、ここぞとばかりにそういうある種の熱量に心を奪われる姿勢は忘れまいぞ。








POSTED @ 2014.06.19 | Comment (0) | Trackback (0)

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