Title: 法要。

大きな法要に出仕すると思うのだけど、満堂の本堂で何百人もいるような法会でしか湧いてこない高揚感とか、一体感とか、何とも口で説明するのは難しいのだけどとても他では体感できないような感覚というのがあって、その体感は「宗教」というカテゴリーの中ではとても大切な事だと思う。

結讃が繰上位上曲とかで、御調声の声が響いた後にそれに呼応するように、附膚から外陣が一斉に発声する瞬間のあの教本がびりびりする感じとか、満堂の本堂が一斉にお念仏をあげる瞬間の地鳴りのような感じとか、その場にいないと感じられない空気感と、なんかよくわからないけど、それに包まれていることの心地よさみたいなものは、言葉では絶対に表現できないし伝えられない。

なんかよくわかないけど、お念仏の力のすごさというものを目に見える形にするとこういうことなんだということが腑に落ちる気がするのだ。なんか頭でちまちまかんがえる範疇をずどんと飛び越えてくるような凄味すら感じる。

その体感がなに。といわれればそれまでなのだけど、頭で理解したり、覚えたり、勉強したりするのではなくて、よくわからないけど自分の中にある何かが揺り動かされる体験というのが確実にあるということを知ってくか知っておかないかということだけで、物事に対する見方は大きくかわるのだと思う。

これは別に宗教でしか体感できないわけではないし、自然をみて心打たれるのも、太陽に手を合わせたくなるのも同じところからくるのだと思うのだし、それでも十分、なにも必ずしも宗教に向き合うべきだというつもりはないし、むしろ仏教というテキストを使わずともその視点、感覚を持っていられるのであれば、仏教なんか必要ないと思う。

お寺や僧侶は役に立たなければいけない。社会の中に価値を見いださなければいけないということが声高にいわれる昨今、そういわれる度に感じるのだけど。

いままでお寺も、僧侶も長い時間をかけて、儀式、作法、法式、声明というものをしっかりと守ってきている。それははっきりいってしまえば社会の役にはなんにもたたない。もしかすると僧侶がみんなでゴミを拾う方がよほど社会役には立つかも知れない。

でも今のお寺や僧侶の基盤を築いてきたそういう土台の部分、その一つ一つをしっかりとこなすこと、意味がないと片付けづけないで、しっかり向き合うことでしか見えてこないものは確実にあるのだと思う。

そこに付随して、よく僧侶は説明責任を果たすべきだと、自慰のような法要をしても意味がないといわれることがあるのだが、そもそも儀式も法要も、ましてや教典にかかれていることも、簡単に口で説明してわかるようなことじゃない。ましてや、頭で理解をしようと思っている人に言葉で説明するということはかえって本質から遠ざかるような気すらする。

やはり仏陀のすごいのは、体感を共有させるための方法論を自分の中で確立させて、それを言葉をつかい、理解をさせることではなく、体感させるところへ持って行くための道筋を方便をとおして示したということなんだろうと思う。

頭や理屈でまかり通るのが社会ならなおさら、人はいつか理解や理屈では決して超えられないところにくると教えるのが仏教、宗教の役目ではないかと思う。

なんでもそうだけど、感覚とか体感とか、そういう理屈でわからないことを役にたたないものだと片付ける、もしくは頭でわかることだけを優先させるから、人間大事なものがわからなくなるのに、僧侶がそれを先導してたら本末転倒。

ただお念仏が無碍の一道というのは、ぐるっと一周して、一緒にお念仏してみよう。そこで「それ」を感じてみようという風にとらえてもいいのかもしれない。

その「それ」がみえないと仏教は表面をなぜるだけで終わってしまうような気がする。


POSTED @ 2013.05.21 | Comment (0) | Trackback (0)

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