Title: いっぽふぉう。
twitterをやるようになってから、思いついたことをさくさくつぶやくので、熟成させる時間が著しく減って、悶々とする時間も著しく減った。それが良いのか悪いのかわからないのだけど、そういう時間が減ってみると、改めて真っ白な画面に向かって、頭の中にあることを文字に変換して、こそげ落とす作業は、自分にとっては自分と向き合う大事な時間で、頭を整理する上でもとても大事で、なによりも熟成させるということはとてもここちがよい時間だったのだということに気づかされる。
twitterのいいところは無駄なものをそぎ落として、端的に自分の想いを伝えられることなのだけど、きっとtwitterで省かれてしまう無駄な部分というものは味とも呼べるし、個性とも呼べるし、独自性でもあるのかもしれない。
それがあることで生きてくるものというものもあるのかもしれない。肉も熟成するとやわらかくなるし。
でもそう考えると、茶道のお手前というのは無駄なものがそぎ落とされているのだけど、そこにはちゃんと味も個性も独自性もあるのだよな。きっとそれはいま自分の見えているものの数段上の境地だからなのだきっと。
型に血が流れて初めて形になるというやつですかね。
書きたいことが明確にあって、それをわかりやすく文章化して書く文章と、今のようになにも考えずに、思いつくままに文字をくりだすような文章では書くときに使ってる部分が違うような気がする、前者は頭のスイッチのいれないと書けないのだけど、後者は頭のスイッチが入ってると絶対に書けない。
このスイッチがはいってるとできないという感覚には書くときだけでなくて、話をするときや、コミュニケーションをとるときにも時々であうことがあるのだけど、スイッチを入れるという意識は同時に頭や心にリミッターをかけるのだ、スイッチなんてものはそもそもどこにもない。
やる気スイッチはさがしたってみつからないし、さがしてみつかるスイッチではよくて自分の身体の大きさくらいの力しかだせないのだと思う。
自分の身体は1つの目安で、そのラインが限界値にみえるのだけど、頭も身体も入れ物に過ぎなくて、その中にある心や思いは、身体の稜線をはるかにこえてしかるべきものなのだ。
書いてて思ったが、やはりこちらで書いている文章からtwitterへ切り出すことの方が、twitterで切り出されてきたことをこっちでまとめるよりも格段におもしろい。
自分にとって散歩をするのと書くのはとても似ている。書き始めるときにはどんな言葉がでてくるかわからない、歩いているときはどこにつくのかわからない。書いてるうちに歩いているうちに、スタート地点では想像も出来なかったものに出合う可能性を秘めている。
そういえば、今日絵本を読んでいて思ったのだ。
どうしてあんなに狼は嫌われるのだ、いつも目の敵にして痛い目にあうのだ。見た目が怖いのは仕方ないが、いつも森の仲間からはつまはじきにされて、まともな人格形成が出来るはずがないし、森の仲間が助け合い、分け合い和気藹々と暮らしているコミュニティにはいれないのだから、奪うしかない、脅すしかない、つまはじきの狼も家族や子どもを守る為なら、豚だって赤頭巾だって喰らうかも知れない。
なんだろうか善と悪の概念を子どもの頃に教えるのはとても大事。だけどわかりやすい形で善悪を色分けしてしまうと、その先を考えることをしなくなってしまうし、実際世界には明確な善も悪も1つもないのに、明確にわかりやすい善悪の構図を鵜呑みにするようになってしまうのではないかと心配になってしまった。
自分の目からみた善しか信じられないと、平気でまた人身事故かよ、まじ勘弁とか言ってもなにも感じなくなってしまうのだ。本当にまじ勘弁なのは人身起こした張本人だ。迷惑者の狼のことはしらないってか。その口で世界平和とか、思いやりだとかを声高に叫んだところで違和感しか感じない。
それと備忘の為に。
本当に美味しいものはよく噛まなきゃわかんないのにな。かきこむように食事をしてると絶対にわからない味があるのだということが少しわかったきがした。
POSTED @ 2013.05.15 |
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