Title: 餅

はるうららかな日、桜の下でもちをつく。臼に落ちる花片こそがわびさび。そんな心穏やかな時間と陸に打ち上げられた船とのコントラストがとても印象に残った。

感じたことをそのままに。

とてもいい餅つきだった。日差しも風も時間も。すべてがとてもかみ合っていて、意図的には決して作れない時間、いつまでも続いて欲しいと思うけれど終わることでこそ完結する時間。

一期一会という言葉をじわじわとお腹で感じることができた。やっぱり自分は人と関わっていることが好きなのだと思う。楽しかったしありがたかった。

被災者という言葉ができてから、意識的にもしくは無意識的にも被災者と、被災者じゃない人という線引きがしっかりとされてしまって、知らず知らずのうちにそのカテゴリーわけが、それぞれの立場の中にバイアスをかけてしまっているように感じた。

時に共通意識のバイアスをかけないと人はまとまらないから、それは絶対に必要。家族、友人、恋人、夫。被災者。親子。大人。子ども。日本人。なんでもそうだ、バイアスかけないと人は自分すら認識できない。でもバイアスをかけた時点で、世界は最大公約数にくくられてしまって、自分と他者は分断されてしまって、その壁や枠や、境界線を越えることを忘れてしまう。

その超えられない境界やカテゴリーこそが人間の深い部分で苦しみに変わる。だからこそ、そこに楔をうてなきゃいけないし、そのバイアスを意識してぶっ壊さなきゃ苦しみの根源は見えないし、根源が見えなければ戦えない、前に進めない。

苦を生み出した直接の原因はいつだって不可抗力な外的な要因だし、そこにまちがいなく大小もあるのだけど、多かれ少なかれそれを抱えずに生涯を終える人なんていない。悲しみから立ち上がるのも、苦しみをかみしめるのも既存設定、削除できないプリインストールされたくそアプリケーションみたいなもの。

気仙沼から戻ってきて、東京の朝の通勤ラッシュの人たちをみてると、ここもまた東京砂漠なのだなと感じるし、家に戻って悲しみに打ち震えてたり、どうしょうもない不安に押しつぶされそうになる要因はなにも震災だけが運んでくるわけではないのだと思う。

今回宿泊した気仙沼の宿の壁に毛筆されていた言葉「311、海はすべてを奪っていった。しかし今、海はまた何もなかったように穏やかな顔をしている。いったい海は何を伝えたかったのだろうか」というようなことが書かれていた。

その言葉に、そこにいる人達の心のあり方、生き方が凝縮されているように感じた。

もしかすると人間には大きすぎる苦は自己防衛的に小さく、逆に小さな苦は自己肯定のために大きくして、ある一定の質量の幅に自己調整する機能が備わっているのかもしれないということを感じた。時々癌のように、その機能が過剰動作してしまうと心のバランスを崩してしまうのかも知れない。

ともあれ、そんなことを思いながら改めて、これからも自分の取り扱い説明書をしっかり書き込む作業に邁進しようと思った。たぶん自分にできることはそれなのだと思う。最近になってやっとその作業の意味や、それがどこに繋がっていくのか、道筋が少し見えてきた気がする。まえにまえに。

POSTED @ 2013.05.01 | Comment (0) | Trackback (0)

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