Title: いんぷっとあうとぷっと。

ここ数ヶ月で、自分にとってのアウトプットはあくまで、インプットの飽和なんだということがよくよくわかった気がする。

なにかに追われているような気になって、インプット不足を環境や状況のせいにしてただけなのだ。本でも映画でも、舞台でも酒をのむでも、なんでもいいけど、誰かの頭の中や、誰かのアウトプットが自分のインプットになって、それをまた自分がアウトプットする。

その歯車の1つに自分が組み込まれているということが生きるということであり、そこから得られる居場所感のもたらしてくれる安穏はとても大きい。それはきっと何かに近づいていく感覚というか、山を登っているような感覚にも近いのかも知れない。

何回も何回も、何年も何十年も何百年も、形のないままに誰かの頭から頭へこねくり回され、練りまわされて表現されている何かが何なのかはわからないけど、いつの時代にもこねくり回されているアウトプットも、そこに至るインプットも、芯の芯にある部分というのは変わっていなくて、この手垢がついたアウトプットの根源も、多様なインプットの根源も、どこか1つの所につながっているような気がして、その1つとはきっと人間の根源的な何かなのだと思う。

表現とは結局の所は、その芯というか、共通項というか、すべての表現の中に脈々と流れている1つの答えに少しでも近づくということなのかもしれない。それが陶芸でも、文章でも、写真でも、文字でも、言葉でも。

きっと自分というものも同じなのかも知れない、この自分、この心をつくるものは、ひょっとすると人間の歴史そのものなのかもしれないし、自分に繋がるまでの何千人、何万人の中に沈殿してきたものから絞り落ちてきた一滴なのかも知れなくて、その一滴が結局は自分というものであって、それは同時に人間そのものといっても過言じゃないのかもしれない。

なんて。

ほんと、世界は心持ちでどこまでも広くもなるし、どこまでも窮屈になるし、どこまでも非情になるし、どこまでも寛容になる。自分がいまところの人生の中で体得したことの中で一番重要だったのは、その事実に気づかさせてもらえたことだと思う。




POSTED @ 2013.07.21 | Comment (0) | Trackback (0)

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