Title: 啓示とか。
昔はよく自分探しに旅に出ちゃったり、インドにいってしまうような人たちに対して、自分なんてものはそもそもどこにもいないし、捜したところで見つかるはずもない、青い鳥みたいなものでしょ、なんてわかったようなことを得意げにいっていたのだけど、そんな自分は言葉に捕まって大事な事の欠片もわかっていなかったのかもしれない。
たしかに自分なんてものはどこにもないのだけど、そのどこにもないものが、日々の習慣とか日常とかの中で凝り固まって、むしろ幻想的に作り上げられてしまって、その自分像が凝り固まれば凝り固まるほどに、そこから抜け出せなくなってがんじがらめになってしまうということは往々にある話で、むしろその凝り固まってしまっている概念をどう打ち崩すかということがとても大事なことなのだと思う。
それをぶちこわすという意味では、あながち旅にでることで、凝り固まったものから解放されるということはあるのかも知れない。
そこで色々なことに忙殺されて、影を潜めた自我や、むき身のゆで卵のような自分がつるっと顔をだしてきて、こんな感情や感覚がまだ生きていたんだとか思ったり、こんな事を言える自分がまだ残っていたんだとか、そういう自分と鉢合わせることで、自分を自分たらしめるものがなんなのかの本質が見えてくるのかも知れない。
瓶ビールを2本ほど飲んで、フワッとしたところに、すこし粘りのある温泉につかる。頭の芯からとろりとほどけて、臓腑のひとつひとつにまでお湯が染み渡るような感覚の中でそんなことを思っていたら、唐突に目の前の山に虹が架かった。
それを見て、啓示や予言なんてくだらないなんていつも思っているし、そんな非科学的なものと仏教を一緒にしないでほしいとすら思うこともあるのだけど、なんか自分がなにかを決意したり、なにかに気づかされた時に、ふと目の前の山に虹が架かる。そんなことはただの偶然なのだけど、そんなただの偶然に、すごく背中を押されるような、まるで光がさしたような気になるなんてこともあるのだなと。自分の中に湧いてきたこの感覚がまさにそれなんだなと。
それが例え偶然でも奇跡でも、そんなささいなことでどこまでも希望を持てるのも、どこまでも絶望するのも人間。それがわかってはじめてみえてくるものもあるのかもしれない。くわばらくわばら。今しばらくはへそが沸かしたお茶でものんで一服。
まえにまえに。
POSTED @ 2013.07.27 |
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