Title: 四と五
子どもの頃と今と大きく違うのは、自分の行動を誰が決めるかということ。
子どもの頃は、今日何をするのか、明日には何をするのか、夏休みはどこにいくのか。その選択権の多くは自分にはなくて親にあるように思う。少なくとも夏休みの先には何も見えていなかった。
与えられた時間を過ごすことしかできないからこそ、その瞬間をいかに楽しむか、その瞬間になにを感じるか、今に意識を集中できていたのかもしれない。
先に意識が巡るようになればなるほど手元がおろそかになる。
そう考えれば、先日ある人に、老後のことを考えると不安でしょうがない、先が見えないことが怖くて仕方がないという話をされたのだけど、先が見えないからこそ、見えないなにかに心を奪われるのではなくて、見えないからこそ今を大切に、今を一生懸命に大事にすればいいのではないかと思う。
一瞬一瞬の連続がその見えない闇をおどろおどろしいものから、ただの"くらやみ"に変えてくれるのだ。
先が見えないことはとても素晴らしいことだ。その中でこそ今を、今の手の中にあるものを愛おしみ、めでる心が湧いてくるのかも知れない。
そんなことを考えていたら、因幡の源左の言葉で、雨が降ってきて、ずぶ濡れになった源左にある住職が「ずぶぬれになって大変だな」と声をかけたら、源左が「鼻が下に向いとるで有り難いぞなぁ」といったという話を思い出した。
" 委ねる "という感覚の根底はそういうところにあるのかもしれない。源左が、阿弥陀さんを親様と呼ぶのも妙に納得できた。
こんな事でもつながるのだ。教えは生活の中にいくらでも落ちてる。
ここが四と五あたりであってほしい。
POSTED @ 2013.07.01 |
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