Title: いんてるはいってない。

例えば、やらなければならないことを抱えていたり、誰かに伝えなければならないことがあったり、〆切に終われていたり、忘れてはならない事があったりするときには、頭のメモリの一部を常に稼働させておいて、その大切な事を保留させておくために使わなければならない。

自分の少ないメモリに例えるならば、その稼働領域が30%を超えてくると、色々なところに負荷がかかりはじめて、動きが鈍くなりだす。フリーズ寸前、インテルはってない。それに残りの70%のメモリは、いかに常駐メモリを解放させるかに使われてしまうので、頭の中ではいつも先のことばかりを考えるようになる。

そんな自分にふと我に返って、今に向けられているメモリ領域が少なくなればなるほどに、生きているという実感が自分の手から離れていくのだろうなと思った。

今ここにある、音や、光や、匂いや、季節がめぐってくる空気や、この瞬間に自分を取り巻いているものにしっかりと意識を向けることで、世界は自分の領域を超えた不思議で満たされているのだということに気づかされる。きっとその気づきこそが安穏とか、幸せとかそういう類のものにつながっていくのだろうと思う。

生きてるはここにしかないのに、ここで生きるのがどんなに難しいことか。

人間は、自分の領域を超えた不思議を見つけた時に、セオリーもルールも、規則性もなければ、時に非情にも無常なるこの生きるということの本質と向き合うことになる。その本質を突きつけられた時に生きるということははっきりと質感伴うのだろう。

その質感を自分の中でどううけとめるかということは人生の命題であり、その質感をどううけとめていくのかということこそが仏教の意義でもあるのではないかと思っている。

藤村操は下記の言葉を残して華厳の滝に身を投げた。

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悠々たる哉、天壤。遼々なる哉、古今。五尺の小躯を以て、この大を計らんとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。

万有の相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。

我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

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生きることは「不可解」であるということであれば、夢も希望もない。いくら考えても考えなくても、何もかもが一陣の風で吹き飛ぶこの人生が大きな悲観につながるという理屈はとても筋が通っている。

しかし、時を同じくして、清沢満之の著書の中にはこんな言葉が残されている。

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私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極である。人生の事に真面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、

其研究が遂に人生の意義は「不可解」であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云ふことを惹起したのであります。

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この対比は、今この時代においてはとても重要な対比ではないかと思う。不可解で思い通りにいかないこの「生きる」という流れの中で、泳ぎ続けることに意味はないから泳ぐのをやめるか。または思い通りにいかないのであれば、その流れにぷかぷか身をゆだねればいいと思えるかどうか。

その思考の切り替えに必要なものが宗教であり仏教であるのだと思う。

現代には多様な選択肢がある。自分に向き合う暇もないくらいの娯楽もある。その中で多くの人は自分に向き合うこともなく、自分を取り巻く不思議や無常には気づかないままなのだと思う。なんとかプランナーは人生は画一化されたもののように説明してくれて、資本主義は生きるということのモデルケースをお金に換える。

一体どれだけの人が今を生きているのだろうか。生きることが不可解だなどということにすら気づかないまま、いざ年をとって、いざ病伏して、いざ愛別離苦に合い、その時にはじめて、生きることの本質を突きつけられて、そこで無常を恨み、無常に苦しんでいるのではないだろうか。

藤村操と清沢満之の残したこの言葉は決して特別なことではなくて、いまこの瞬間の自分にむけられた大きな命題の本質なのだ。

ステマでも布教でもなんでもなしに、自分の手の届くところに仏教があって本当によかったと切に思う。そしてつくづく阿弥陀さまを本尊とする必然的な理由というのは他でもない自分の側にあるのだなと感じるわけです。




POSTED @ 2013.03.01 | Comment (0) | Trackback (0)

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