Title: さくらなみき。

子どもの時、テレビのいうことは真実で、大人のいうことは社会の道理で、世界はどこまでもひろく繋がっているのだと思っていた。少しづつ大人になって自分の了見が広がってくると、世界はどこまでも繋がってなくて、社会の道理はひんまがっていて、テレビのいうことにはたくさんの利害が絡んでいるのだということが見えてくる。

その現実と心のギャップに心の置き所がわからなくて感情がうまく処理できないことを思春期と呼んだり、反抗期と呼んだりするのだろう。いくら思い悩んでも世界の現実は何も変わらないし、なによりも本当は自分だって特別な存在でもなくて、そのひんまがった社会の一要因に過ぎない。

その現実とどう向き合っていくのかということで、生き方というのは変わってくるのだと思う。気づけば気づくほどに、見えれば見えるほどに社会はひんまがって、世界ははハリボテのようなものなのだ。でもその世界に生きていくということこそがのが人生そのもの。

白も黒もいわば執着なのだ。

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何かを輝かせる為の光は、誰かを日陰に引きずり込むのだ。

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予想より早い開花にあちらこちらで大わらわな様子だけど、そもそも花見というのは人間が花の予定に合わせるからこそ風情があるのだろうに。どこまでいっても人は人間の物差し。花の時間に合わせようという心意気がなければ花見酒もただの酒。

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自分の中にある思いや考えを過去の文献や、古い書物の中の言葉に見つけることで、自分の型というのは明確になってくるのかもしれない、時に反証する言葉に襟を正しつつも、その作業を繰り返し繰り返し行うことで身につくものを自信と呼ぶのかも知れない。

仏教は絡まりあって、もうどこが結び目かもわからなくて、がんじがらめの塊をばらばらにしていくための作業行程みたいなものなのだと思ってる。

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「語りかけてくる」という言葉を使うときに自分の中に響いてる言葉は誰でもない自分自身の中にある声であり、声なき声を聞くと言うことは自分自身にしっかりと向き合うという事なんだろうな。





POSTED @ 2013.03.26 | Comment (0) | Trackback (0)

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