Title: されどコーヒー。
誇大妄想なのだけど。
例えば、スターバックスのラテと出合ったことで、コーヒーが飲めるようになったのだけど、コーヒーが飲めるようになり、色々なところでコーヒーを飲むようになると世の中にはおいしいコーヒーというのがたくさんあるのだなということを知るわけです。
いわば、いままではスターバックスのラテが自分のコーヒーの全てだったのだけど、もっとおいしいコーヒーを知ることで、むしろスタバのラテを飲みながらコーヒーを知ったような顔していた自分の器の小ささを目の当たりにするのです。
そんなこんなでふと感じたわけです。
少しおいしいコーヒーを知ったり、いままで知らなかったようないれかたや器具を教えてもらったりして、少しづつコーヒーが自分のものになっていく中で、自分のコーヒーの入り口であるスタバのラテの存在に対して自分がどういう気持ちを払うべきか。
もっともっとコーヒーが自分のものになって、コーヒーのなんたるかが今よりも少し感じられるようになったら、きっと自分はスタバのコーヒーをのんでおいしいおいしいといっている人をみて、もっとおいしいコーヒーがあるよとか能書きを垂れてしまうのではないだろうか。えらそうにコーヒーの講釈をたれたりするのではないだろうか。そうはなるまいと思っていても心の中でどこかそういう奢りというか、わかったような顔する自分が頭をあげてくるのではないだろうか。
いやむしろそうなって当然だし、それが人間の既存設定なのかもしれない。つくづく原点とか、自分の関わってきた点とか、そういうものにどう気持ちを向けるかというのは生きていく上でも大きな命題だと思う。
自分の視点が変わることで、そのもの自体の価値が変わってしまったり、それが今の自分にとって必要か不要かとか、そういう都合のうんぬんにかかわらず、自分の通ってきた道の中で関わった点を抜きに今の自分はないのだ。人生は点ではなく線なのだ。それを認めることは自分を認めることであるし、それを認めることで今一度謙虚な姿勢を取り戻せるのかも知れない。
ほっておけば自分はどこまでも傲慢になる。どこまでもえらそうに、どこまでもわかったような気になる。そうなるまいと心に誓い、そういうときはスタバのラテをのみながらそれじゃいかんぜよと自分に言い聞かせようと思ったのです。
ちなみにスタバのラテがおいしくないというわけでもなく、日々のんでいるのですけどね。ようはわかったような顔でイキるような大人にはなりたくないとそういうことです。
POSTED @ 2013.03.05 |
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