Title: THNK
2020.01.04

惑っていることにすら自己肯定をできるほどに、いろいろなことが器用になって、
取り繕うことも、無難にこなすことも、それなりの結果で満足することにも疑問すらわかず。

踊り場まできただけなのに、そこに座って、陣取って、階段をのぼってくる人を満足げに眺めながら、
世代が変わっただの、自分も年を取っただの、なにか流れゆくものに浸りきって、
あげく一息つきたいだなんて漏らしたりする。

結局なにも成し遂げないままこの年になってしまったというだけなのに、
その現実を直視したくないからなのか行動しないことにすらうまい言い訳をみつける。
くそみたいに自己肯定ばかりしたくなる。

自分で肯定してやれなきゃ前に進めないような生き方が
この39年の集大成なのかとおもうと、
いままで生きてきた時間は何だったのだろうかと、
悲しくもなるのだけど、

それも全部ひっくるめて、人が一人生きてくるということがどういうことなのかということが肌身に染みていることだけは間違いなのだ。

根拠のない自信も、
よくわからない直感も、
死んだらその時だなんていう思い切りも、
側面的な正義感も、

今の自分の中からは失われてしまったと思っていて、
その喪失が自分にもたらすものが、大人になるということであり、
老いであるというものだと、その事実をとてもネガティブなものだと思っていたのだけど、
それはどうやら違うのかもしれない。













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Title: あれから、。
2020.01.04


最近あまりに昔のことをよく思い出すもので、
これはなにかの前触れか、または一種の走馬灯のようなものなのだろうかと、
自分の中に起きていることにすこし困惑もしていたのだけど、

でもふと気づいたのだけど最近思い出すことのほとんどは、もう失われてしまったものについてばかりなのだ。

もう取り壊されてしまったものや、
もういなくなってしまった人や、
もう二度と行くことのできない場所や、
もう感じることができないものや、

時間とともに変化し、失われてしまったものを、思い出してみると、
その時には気づけなかった重要な意味や価値に気づかされたりして、
同じ映画をもう一度見直すかのように、
自分がこの年になってみて改めてあの言葉行動のひとつひとつに灯っていたものに気づかされる。

*

真宗の教えって、子供に帰っていくような感覚に近いのかもしれない。

子供が子供でいることの安心感を知らず知らずのうちに忘れていることに、あらためて気づかされ、
大丈夫と言われることのあたたかさに包まれることなのかもしれない。

*

なにも解決できなくてもよい。
ともに笑い、ともに泣き、ともに怒り、ともにあること。
人間のできることは、たかがしれている、たかがしれているからこそ、
その「たかが」生きることにどれだけ向き合えるかということ。
自分の人生は「たかが」ではなく、特別なものであり、
「たかが」なんて言われたくないという思いが
「生活」の中で大きく膨らんでゆく。

*

小手先ではなく、1からやり直そう。
うちから紡ぐことを。
ながい助走時間だったかもしれない、
わかったような顔をして過ごしてきたかもしれない、
いろいろなことが上手になったかもしれない、
知らず知らずに傲慢になっていたかもしれない、
登り切ったような顔して、踊り場から下を見下ろしたまま、
登ってくる人たちをながめて、余裕な顔して微笑んだりなんかしてたかもしれない。

そんな自分自身を自己肯定することもとても上手になった、
書くことにも、話すことにも、読むことにも、
言い訳をみつけては、それを正義だと思い込んで、
たださぼってきていたのだ。

1からやりなおそう、
この区切りに、もう一度やり直そう。

*





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