Title: むじつのつみ。
なつおわっちゃうのかね。
もう秋はそこまできてるのかね。
足音に聞こえないふりをできる時間はあとどのくらいあるのだろうか。
年をとると時が過ぎるのが早く感じると言うが、最近1日がながくてしかたねぇ。
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出生前診断で99%ダウン症がわかるようになったそうだ。
しかも検査方法が簡単であれば、これからこの検査は一気に普及するだろうし、その結果によっては、生まれるべきはずだった命が間引かれることになっていくのだろう。
こういう技術が進歩して、実用レベルになってきたときに必ずぶつかるのが倫理感というもので、こういう問題が持ち上がると必ず一部の僧侶が倫理感に反する、命の選別はやめろ的なことをいうことがあるのだけど。
自分が僧侶として思うことは、この検査をして、自分の子どもがダウン症であることがわかった時に、堕胎するか、それでも生むかということはその人の置かれた環境や、立場や、それこそたくさんの縁によって判断されることであり、その判断自体に是も非もないと思ってる。無論堕胎をすること、命を間引くことに対して、肯定はしないし、むしろそういうことが起きなくていいなら根絶したいと思う。
でも自分だって、その状況になったらどちらを選択するかもわからない。
選択というものには、いろいろな想像を超えた様々なものが作用する、それは一人の人間の脳みそのはじきだせる限界をこえていて、考えたって答えの出るようなものではない。
いづれにせよ、どちらの選択をしたところで、いづれにも苦しみが生じる。その生じた苦しみにいかに向き合うかが僧侶の仕事だと思っているし、その答えと解答を1つでもおおく教典の中に学んでおきたいと思っている。
苦しみを生み出す元を絶たなければ意味がないという意見もあるかも知れない、焼け石に水みたいな作業かも知れないけど、目の前にいる袖ふれあうところにいるところの人達の中に生まれた苦をとりあえず、船底の水を掻き出すみたいに対処していくことが自分のできることであり、やるべきことだと思ってる。
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つらいときとか、悲しいときに、昔の良かったときや、楽しかったことを思い出して、そこにすがりたくなったり、さもそれがまだそのまま残ってるかのような幻想に癒されて、そこで背中を押されてまた歩き出せると言うことはよくある。
自分自身いままで何度もそれでまた歩き始めることができたし、何度も救われたのだけど、そういう自分は好きじゃない。
過去に癒されるほど今に絶望するまえになんとか立て直す術くらい身につけていたいし、今よりも過去が素晴らしいと思うのは自分の努力不足だと思ってる。
環境や状況や、その他諸々の諸事情を自分の力で変えたくても変えられないし、どうしょうもなく今に絶望しているとしても、やはり自分を変えられるのは自分しかいないと信じてる。
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年をとればとるほどに遊ぶということの価値は重要性を増すし、遊ぶにもうまいとへたの差が顕著になってくる。
周りを見渡せば、世の中には本当に遊ぶのがうまい人が多いなぁと思う。どんな遊びでもいいけど、時間もお金も錬金術のようにつくりだして遊んでいる人をみていると自分もまだまだ遊び足りないなと思う。遊ぶのがうまいっていうのは才能だな。
遊ぶということは好奇心と想像力を研ぎ澄ませることだと思う。自分からしたらどうでもいいようなことを夢中になっているおじさんとか見てると、そんな感性をもって年をとれたら幸せなんだろうなと思う。
時間がない、お金がない、だから遊びは二の次だというのはよくわかるけど、でも二の次になっても遊ばなくていいということではないと思う。遊ぶと言うことは、無理に時間を作っても、無理にお金をかけてもするべきだと思うし、若いうちにそこにお金をかけることは自分への投資だ。
無駄遣いかどうかは目先の損得だけがバロメータじゃない。
本当の豊かさは無駄の中からしかうまれないのだと思う。
何をしてたって人間最後はおもしろいかおもしろくないかで、人間関係だって年をとればとるほど、おもしろいかおもしろくないかで人を判断するようになってくると思う。
おもしろいことをしてない人が、おもしろいことを語れるはずもない。もし少し長く生きることができたとしたら、いくつになっても、おもしろいことを追いかけ回して楽しんでいたいし、おもしろいことの1つや2つくらい、子どもや孫に語れるような大人になりたいと思っているから、無駄遣いもするし、たくさん遊ぶことにする。
というただの自己肯定と、自己鼓舞。
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昔はもやっとしてる状態で、なんとか文章に書き出して、そこから自分の中にあるものを俯瞰的に見て、自分の中にあるものを整理することが多かったと思う。今でも最後はそうやって考えるのだけど。
最近書き出す前の状態のもやっとした状態を頭の中でねかせてこねて、熟成させるという過程を楽しめるようになったかもしれない。
まだ書かない。まだ選別しないと。
書くということは結局どこかに無理矢理ねじ込んで、そこに後付けで意味をのせるようなものだから、それはそれで大事なのだけど、もう一つ頭の中でちゅうぶらりんのまま、思い出したように手垢をつけていくことではじめて見えてくるものがあるのかもしれないと思えるようになったら、感情や想いや願いとか、そういう抽象的なものに幅を持って、少しのりしろを多くとれるようになったような気がする。
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あっちゃん(前田敦子)は顔から表情が読みづらい、感情を想定しづらいというところが最大の武器なのではないだろうか、人間はわからないもの予想できないものには無条件に畏怖するの法則であり、往々にして男子は追い続けてもわからないものを追いかけ続ける習性がある故にアイドルは天職だと思う。
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POSTED @ 2012.08.29 |
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