Title: 姿見

僧侶は姿見なのかもしれない。

仏法はよく鏡に例えられるが、僧侶とはその仏法を自分の中にしっかりと落とし込んで、自分自身が姿見となっていくことが理想なのかもしれない。

目の前の人と対峙したときに、相手が姿見を通して、自分のネクタイが曲がっていたり、鼻毛が出てたり、襟に皺がよってることに気づいて、それを自分自身で正せるようなきっかけになりうるということが大事なのではないだろうか。

姿見は、決して、そのネクタイおかしいよ、きっとあなたにはストライプの方がいいよとは言わないし、鼻毛がでてるから切ってあげるようなこともしなければ、その襟、皺がよってるよ、クリーニング屋変えた方がいいよともいわない。

どこまでもニュートラルに、ただありのままに相手の姿を映しだすだけ。

教典の中に書いてある言葉をかみ砕いて自分のものとして、時に引用して、どうやったら相手を映し出せるのか考えるということが待機説法ということであり、縁無き衆生は度し難しという言葉の意味なのかも知れないし、八万四千の法門がある所以なのかもしれない。

ただそこで自分への戒めとして、言葉にするのが難しいのだけど、誰かを映しだすということは、これみよがしに鏡を相手の鼻先に突きつけるのとも違うし、頼まれてもいないのに、腕を引っ張ってきて鏡の前に立たせるのとも違う。あの手この手で合わせ鏡や拡大鏡を駆使して、相手のアラを探すように鏡を使うのも違う。

相手を映しだすという時に、自分がすべきはひたすらに鏡を磨くことだけでいいのだと思う。ひたすらに鏡を磨いて、歪みがないか、曇ってないか、その点検を繰り返すことこそが、いつか鏡の前に立った人を映しだすということなのだと思う。

受動的な行動も突き詰めていけば、それは能動的な行動になる。

鏡の前に人を立たせることが教化なのだとしたら、自分は教化なんかしたくないし、そこに使う頭と時間を違うことに使いたい。

通りすがりの人がふと立ち止まった時に、たまたまショーウインドウに映った自分のすがたにはっとして、身を正して、また歩き去っていくくらいのきっかけで、それはもう十分に法縁なのだと思う。


POSTED @ 2013.01.25 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。