Title: 金の卵
今日、子どもたちの演じるジャックと豆の木を見ていて 金の卵を産む鳥がいたとして、ふと自分だったらその鳥を無条件にも欲しい!と考えるだろうかと思った。
たぶん、自分は、その鳥は何を喰うのだ?金の卵はどのくらいの大きさで中は空洞か?夜中に鳴いたりしないか?冬は外に出してても大丈夫なのか?匂いは?寿命は?卵は換金したらいくらになるだろうか。なんてことにひっかかって、自分なりに情報を整理して、考察をして、それを飼うことででるマイナスを消してからではないと手にしたいとは思わないし、どうしても不明瞭な部分があれば、それが最悪な方に転んだとしても対応できる策を思いついて初めて手にしたいと考えるのだろうと思う。
なんてめんどくさいのだろうか。自力の極み。
それでも最近は、自分の想像はあくまで想像の域をでないし、自分の想像の中で動いているうちは、いつまで経っても自分の枠を超えてはいけないし、おもしろい科学反応は起きない、その化学反応がないと人生は色味を失うことがある。ということも経験してきたので、ある程度出たとこ勝負でフルスイングすればいいのだと思いつつも、やはりめんどくさい自分がしっかりといるわけです。
しかしそのめんどくさい自分の習慣がもたらしてくれた嗅覚みたいなものが、自分を守ってくれているということも間違いないのです。なので、いままで培った嗅覚を大切に、その感覚を頼りつつも情報や想像に振り回されないようにしなければいけないなと思うのです。
兎にも角にも、子ども向けの童話やお話というのは、つっこみどころが満載で、なんでそんな安易に家に狼を入れるのだろうか、なんで鬼とか狼というのはみんな詰めが甘いのだろうか、それは何らかの過信からくるものなのだろうか。そこさえ直せば簡単に猿や犬やキジなんて小動物にやられる事なんてないだろうし、子ヤギなんか食べ放題なのに、そもそも鬼や狼にだって生きる糧や手段が必要なのだ。なんてことばかり考えてしまうのだけど、
結局の所、幼少期における子どもの心には、本当はよく考えたらどちらが善か悪かわからないようなことでも、理屈ではなく、とりあえず目に見えるわかりやすい絶対善、絶対悪の良識を持つということが大事なのだのだろうな、と思いつつも、やはり頭の片隅でその絶対善や悪をどこかで疑う心や視点もちゃんと持っているような人に育って欲しいとか思ってしまうのです。
光が差せば必ず影ができる。陰を生まない光はどこにもないのだ。
なんて。
POSTED @ 2013.01.31 |
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