Title: ふくわらい。

「ふくわらい:西加奈子」を読み終えた。

咀嚼するみたいにじっくりと読んだ。

そこで感じたこと。

例えば、絵を描かない自分が、何十種類もある絵の具を買うとする。絵を描かないのに絵の具を買うことは必要のないことのように見えるのだけど、でもそのなかにセルリアンと書かれた青を見つけることで世界の色が一変するということがある。

新しく彩られた世界が開けるときに、なにとなにがつながって、なにとなにがつながらないなんてことは誰にもわからない。

世界は自分が考えるよりももっと、繊細に細く複雑に絡み合っていて、それを丁寧にたぐよせて、つないだり、結んだり、時にちぎれたり、そういう感覚を指先で感じるということが味わうということであるし、生きていくということなのかもしれないと思う。

言葉もそうだ。感覚もそうだ。

感覚と言葉を結びつけるということは、自分が思っているよりももっと自由に、広く、言葉が文字として、ただそれだけで独立していてもいいのではないかと思う。

それと。

天才と凡人の努力はきっと根本的に質の違うものなのではないかと感じた。

天才と呼ばれている人の努力の根底にあるものは、飽くなき探求心であり、自己への探訪でもあり、その才能がさびていくことへの予防であるし、それはいわば恐れでもあるのかも知れない。それはあくまで動機が自分の中にとどまっているように感じるのだ。

しかし凡人の努力の根源にあるものは、顕示欲であったり、執着であったり、天才のものに比べて、息をするようになくてはならないものではなくて、動機付けがどうにも自分の外にある欲求であることが多いように感じる。

そこに付随して秀才と呼ばれる人間は、外においた動機付けでも努力を放棄することなく、天才にはなれないが、少なくとも凡人を越えた結果をだせる人のことをさすのだろうと思う。

この根本的な動機の違いはとても大きい。

それと。

自分の中に湧いてきた、定という主人公への想いは、紛れもなく、その本の中にいる人格への興味であり、自分が好きになるだけの要素を凝縮して詰め込んだような女性への思慕であったのだと思う。

その感情は定が守口に想いを寄せるのに近いのかも知れない。

だから本を読み終わることで、もう会えなくなってしまうことに対する寂しさのようなものを感じた。

それと同時に現実に定のような人がいたときに、間違いなく自分は一瞬で心を奪われるのだけど、定は間違いなく自分に心を奪われることがないということもはっきりわかる。

それがはっきりわかるということが、現実での自分の立ち位置であるし、自分が認識する自分の分限であり、それこそがまさに自分のいままでの生き方の全てであるような気がして、そんな自分が薄っぺらく思えて嫌気がさしたりもした。

そしていままでの自分を振り返ってみて。

きっと自分は特に異性に対してどこに惹かれるのかと言えば、自分自身に意識が向きすぎてない人が好きなのだ。

自分を多少犠牲にしてでも、ベクトルを向けられる何かがあるかどうか。それがあるかないかが自分の中で惹かれるか惹かれないかの間にしっかりとひかれた線のように感じる。

それと。

私の中の「すべて」が広がるという言葉が、いままで自分の中にあったけど、言葉をつけかねていた感覚にしっくりとくるような気がした。

この本を自分に勧めてくれた人がいるのだけど。

思いの外他人の目というのは、自分を正確に射貫いてくることがあるのだということに、妙な心地よさと安心感を覚えると同時に、自分の事は誰にもわからないと思い込んでいる現実とそうでない可能性の乖離に若干の戸惑いのようなものと、立ち位置がふらつくような感覚を覚えた。

ともあれこの本とであえてよかったと思える一冊だった。

こういう出遭いがあるから、おもしろい。


POSTED @ 2012.11.03 | Comment (0) | Trackback (0)

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