所詮僧侶でも、所詮サラリーマンでも、所詮医者でも、所詮大工でも。
なんでもいいのだけど。
所詮と思えて初めてもう一歩前に進めて、その一歩がプロフェッショナルになっていくということなのではないかと思う。
中2みたいなへんな全能感を払拭できなくて、分限を越えてあちらにもこちらにも口を出して、あっちからもこっちからも褒めてほしくて、自分でも自分が何者かわからないうちは決して到達できない場所っていうのがあるのだと思う。
所詮だからこそできることや見えることがある。
恋人とか夫婦とか家族も同じだと思う。
所詮恋人で、所詮夫婦で、所詮家族なんだって思えてやっと俯瞰してみることができて、俯瞰できて初めて相手のいいところにも、悪いところにも目が向くのだと思う。自分の執着を美化したり、過度な愛情から生まれる幻想や妄想が大きくなればなるほど、期待もするし求めるものも大きくなるのだけど、そこに捕まれば捕まるほど目は曇る。
向き合うということは美化することじゃない。
所詮だと思えてはじめて本当の意味で向き合えることもある。
自虐とか謙遜とかではなく、腰と腹を据えて分限を知っている人はやはり強い。所詮というのは使い方によってはそういう強さを秘めた言葉になるのだと思う。
自分は自分。
人間は人間。
所詮。
だからこそ譲れないものが見えて。
なにをすべきなのか見えるのかもしれない。
所詮。
死ぬときにはなにももっていけない。
所詮。
最後は一人で死に向き合わなきゃいけない。
所詮。
所詮。
ああ、所詮がゲシュタルト崩壊しそうだ。