Title: 見。

人生大概のことは、考えても考えなくても結果に大きな影響はないし、良くも悪くもだけど、がんばったら報われるというのも嘘だし、がんばらなかったら報われないというのも嘘で。 

ただ目の前にボールが来たら、自分が一番いいとおもうスイングでバットを振れればそれでいいのだと思う。

その結果がヒットになるか凡打になるか三振するかは、しったこっちゃない。

最近なにかに臨むときや、心がざわついているときに、自分に言い聞かせるように心の中で「きた球を打てばいい」と思うようにしている。

例えば、昔はバッターボックスに立つときに、どんな球が来るんだろうか、ピッチャーはどんな奴なんだろうか、いままでどんな経歴で、何キロくらいの球を投げてくるんだろうか、変化球は何種類くらいあるんだろうか、傾向と対策を立てなくてはいけないのではないだろうかとか。

みんなが注目してるのに、空振り三振したらどうしよう。かっこわるい転び方したらどうしよう。それならせめて空振りしたときにも格好よく見えるような転び方でも練習しておこうかなんてことまで考えたりして、すぐに空気にのまれてしまっていたし、バッターボックスをでたあとも、もっといいスイングあったんじゃないか、もっといい空振りがあったんじゃないかとかばかり考えていた。

でも最近は「きた球を打てばいい」のだと思うことで、昔よりも少し気楽にバッターボックスに立てるようになった。

自信に充ち満ちてどんな球でも打ってやるぜという気負いがあるわけでもなく、かといって自信がないわけでもなくて、ホームランは打てなくても、飛んできたボールにある程度バットを合わせていけるくらいの年の取り方はできてると思えてる。

そして一番大きいのは、空振りが怖くなくなったということ。

むしろ、今待ってるのは絶好球を芯で捕らえるホームランよりも、完璧に捕らえたと思ったのに、ボールがミットの中にあって、完全に空振り三振をとられるような経験であるということで、尚且つ、昔はそういう経験をしたら、バットをホームベースにたたきつけて悔しがったと思うのだけど、今がきっとそれが嬉しくてしょうがないと感じるのだろうし、そういう球を投げるピッチャーがいるということに、わくわくできるような気がするということ。

無論ふつふつとお腹の底で、次は必ず打つという思いが煮えたぎっている点では変わらないのだけど。

今の自分は昔よりも少し嫌なバッターになれたと思う。

でもそれでは、まだ野球というルールの中で、自分がどう見えるかとか、どういうバッターなのかとか、そういう所に捕らわれていて、ただの打者に過ぎないのだということも何となく感じていて。

願わくば。

遠いいつかには。バットを持っていなくても、バッターボックスに立っていなくともピッチャーに恐れられるようなバッターになりたいと思っている。

野球とか全然やったことないんだけど。

POSTED @ 2012.11.08 | Comment (0) | Trackback (0)

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