Title: れべるE
日がのびたのを感じられるようになると、一足先に心が春めきだす。そんで、フライングぎみにタラの芽の天ぷらをむしゃむしゃ食べながらキンキンに冷えた瓶ビールをがぶがぶと飲む。
そんでパソコンを開いて、デスクトップに散らばった書きかけの原稿と、ポストイットに、作業中のファイルをみていたら、パソコンのデスクトップと自分の部屋と、心の状況はいい感じにリンクしているような気がしてまずはデスクトップをきれいにしてみた。
夜風も心なしかすこし暖かくなった気がして、これからますます飲み歩いちゃう日が増えそうだなと思って、今のうちにすこしダイエットもしなきゃと思いたち腹筋なんぞもしてみたりする。
なんか。
身の程を知るという経験は本当に大事なんだと思う。年をとればとるほどに身の程を思い知る機会が減っていくような気がする。自分から足をすすめないと身の程も思いしれない。踏み出す怖さを、勇気と向上心が上回れるような自分でいたいと思いつつも、最近は守りにはいってばっかりだ。もっといろんなところに噛みついたりしなきゃ。いつまでも高い塀の上のぎりぎりのところを歩きながらどきどきしてたい。
最近自分ってばつくづくひねくれているなと思う。
それが、いい話やまっとうな話であればあるほど、その逆説に価値を見いだしたくなる。
そのくせ妙に沸点が低くて困る。
なんか、できあがってくるスカイツリーを見ていると、やっぱ自分は東京タワーの方が好きだなと思う。スカイツリーがたち始めたことで、東京タワーの魅力がますます増したように思う。なんか目に見えない部分でいろんな物がそこに負荷されて高みに登るような、うまいこと年を纏って生きている人にじみでる哀愁のような人間くささのようなものがぐんと増した気がする。
最近は何事もすこし不完全で、均一でなく、左右非対称なくらいのものにたまらない魅力を感じる。
ポン酢醤油はキッコマン。
知らない国を想像して、手をさしのべようと思っても、自分は感情移入できないことがよくわかった。自分は目の前で見て聞いて感じて、話して、リアリティがないものには、ここ一番で感情移入ができないタイプなのだ。同時に目の前にあるものには妙な感情移入をしたりするタイプなのだ。
どこかが屈折しているのかもしれないけど、自分は理屈や美談に感情移入できるほどまっすぐではないのだろうと思う。だから感情移入するには、理屈が空論じゃなくなるように、その環境に身を置かないと駄目なんだ何事も。
だから四の五のいわずに、死ぬまで生きていれたらそれでいい。
ジュエルリングを指にはめて、公園を走り回っていた頃に見えていた世界の感覚を少しでも取り戻したいと切に思う。頭でっかちじゃなく、感情と感性で自分を組み立てていた頃に。
答えは一つだと思う。
でもすべてのものに答えがあるという、既成概念の中には答えはないのだと思う。
そんでそれはきっと言葉にできない体感だと思う。
その感じを味わいたい。
ああ。これかって。
きっと今まで感じたことないものが心に沸いてくる感じを一度体感して、脳みそがもっともっとと言っているのかもしれないとも思う。
それと、自分はきっとハチドリにはなれなくて、きっと森から逃げ出した動物と同じなんだと思う。だからきっとそういう動物たちをみると安心するんだろうと思う。
ぐびぐびっと。今日もアクアクララがうまい。
POSTED @ 2011.02.07 |
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