Title: 雪氷とけて雨水となればなり。


例えば。やらなきゃいけない仕事がたまっているけど、今日は休みだから気にしない。明日になったら処理すればいいやとか、仕事の最中にituneがおかしくなって原因がわからないけど、まあとりあえず仕事を終えてからあとでゆっくり直せばいいやとか、作りかけのサイトがあったりすると、毎日こつこつ少しづつつくっていこうとか、そういうのができなくて、なにかを宙ぶらりんにしたまま、他のことするというのが苦手なんだと思う。

目の前の事は一つ一つきっちり片付けておかないとなんか気持ち悪い。

はやい話が、テストの前に部屋の掃除をいつも以上に、入念にやり始めたり、いちいちけじめとかこつけて、自分で何事も自己完結していくタイプだということだと思う。

これでもだいぶいい意味でそういうものに心を捕らわれなくなったし、宙ぶらりんにもできるようにはなってきたものの、それは処理がうまくなっただけで、根底にある気持ち悪さが消えたわけではないわけで。

たまにそんな自分にため息の一つもでるけど。

でもそんな自分のメリットは、人生にリセットボタンはあると思っているということだと思う。

はてさて。

ここのところ御遠忌にむけての声明講習やら研修会で本山に泊まり込みで勉強をしにいくのだけど、その度に6年間全寮制で過ごした経験は完全に自分の中に根付いているなということを身にしみて感じる。

時間配分や、気の抜き方というか、いい意味でのサボり方や、パーソナルスペースの確保の仕方とか、自分の気持ちの保ち方や、共同生活をする上での他人との距離の保ち方のノウハウとか、そういうものが自分の中であたりまえのように身についてると思う。だから旅先のドミとかで赤の他人と何日過ごしたとしても、あまり不自由を感じることもないし、不自由を感じても、それを自分で立て直す術を身につけているつもりだ。

とはっきり公言できるくらい、男子校全寮制で6年間で身につけたものはでかい。

むしろ研修が3日目くらいになって、みんなが音を上げはじめた頃にエンジンがかかってきて、スイッチが完全にはいってる自分は、ちょっと共同生活が終わることに寂しさを感じたりもする。

たぶん、時間を拘束されたり、制約された中で感じる自由とか、ひねり出したような自分スペースとか、そういうものがたまらなく好きなんだろうと思う。

なんでもしていいよ。自由にいきな。と言われるよりも多少の不自由や不具合を抱えている方が、そこからこぼれ落ちる自由の価値は重いのだと思う。

きっと高校生の時に北海道を一人旅したときの感動と興奮が未だに鮮明なのと、授業中の居眠りほど気持ちいいものはないと思えるのは、きっとそういう理由なんだろう。

それと。

朝起きてあのキンキンに冷えた広い本堂をぞうきんがけして、何時間も正座して、声がかれるまで声明したり、今回は板東なんかもやったので、何十人もの僧侶が身体を揺らしながら、念仏する様に、客観的な視点で、おお・・・まさに宗教って感じがするな・・・とか想いながらも、自分がその中にいることに妙な安心感と、なんか一種の誇りのようなものを感じたりもする。

それに、なんかできないことがたくさんある自分に気付いたり、声明や作法も、人前で話すことも。自分よりもあからさまにできる人間を目の当たりにしたりできて、すごい悔しいかったり、恥ずかしいと思えることがうれしかったりする。こうやって自分の立ち位置を確認する作業を怠ると、いつだって自分の世界と殻の中で、偏って凝り固まって、自分の限界に自分で線を引くようになってしまうんだろうと思う。

でも。

自分にはないものを持ってる誰かがいて。

悲しくなったり、うらやましくなったり、ああなりたいと想うことはよくあるけど。

でも自分はその人にはない何かを持っていると。

最近はそう思えるようになった。

そう思えるようになって初めてその逆にも質感がともなう。

んで。 

遠い太陽系に思いを馳せたりもする。

きっと繋がらないようなことこそ繋がって、それとこれは話が違うと思うようなことこそ根底で結びついてたりするんだろうと思う。

同級生を刺した中学生と自分との違いはただの選択肢の違いだけ。

陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり。

POSTED @ 2011.02.17 | Comment (0) | Trackback (0)

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