Title: 椿。
気づけば日々にかまけて、足下見ることも振り返ることもしないでもう1月も終わる。
昨日は畳の縁をまたぐかのようにいとも簡単に今日をこえていく。
35歳の1年で感じたこと。
例えば遠くテロに想いを馳せ、崖から落ちたバスに心を痛め、
どこかのだれかの怒りや悲しみが、さも自分も同じであるかのように振る舞おうとするときに、
おまえになにがわかるんだってなもんで、
わかった振りして、涙を流し、
振り下ろしどころのみつからない拳を振り上げて、
それがさも悲しみや怒りを代弁するかのような振る舞いに見えれば見えるほど、
それを俯瞰してそれは恥ずべきことだと思わねばならないのだと、
この1年を過ごすまでの自分は、意識的にも無意識的にもそう思わねばならないのだと思っていた。
それはきっと、「いわんや悪人をや」が自分にもたらした影響の一つなのかもしれないのだけど、
でも、最近思うのは、
「いわんや悪人をや」なんだ、
でもそれでも考えも深度も浅いところで、
嘘みたいな涙を流し、嘘みたいな拳で、
理由なんかわからず、目の前の相手を殴ろうとする人間の気持ちこそが一つの真理なのだと思う。
一つの出来事を俯瞰して、目の前の悲しみには理由があって、
それを生み出したものは様々な業であり、そもそもそれが起きるまでに繋がってくる因果に、
ああでもないこうでもないと頭でものごと考えてでてくる「いわんや悪人をや」という文言は、
それ自体がもう、深度の浅い涙と同じであって、
そのどちらもが救われねばならなくて、
どちらも救われなければならないということこそが、
善も悪も越えた凡夫という存在を浮き彫りにして、
そこにはじめて本願が差しこむのかもしれないと。
つまりは、目の前の出来事に、心が動くことは頭ではどうにもならなくて、
そこに深度もなにもなく、どうしょうもなく浅いところで心を簡単にもっていかれ、
その共感に傷を癒しあえるという機能が既存に備わっている生き物であるということは、
恥ずべき事でも、忌むべき事でもなく、
むしろそのような極端な感情を持つことこそが、
一つのとらわれで、
そのすべてに愛おしいくらいに泣けるということが、慈悲だとしたら、
その慈悲を一身に受けて、ただただ浴びて、
その暖かさをちゃんと肌で感じられるような心持ちでいたいと。
そう思うようになったということです。
あなかしこ、あなかしこ。
POSTED @ 2016.01.18 |
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