Title: 映画『PERFECT DAYS』とノンフィクション『酒と涙と女たちの歌 3』を観た日
2025.02.12
映画『PERFECT DAYS』とノンフィクション『酒と涙と女たちの歌 3』を観た日

「こんなふうに生きていけたなら――ヴィム・ヴェンダースと役所広司の美しきセッション」
映画『PERFECT DAYS』の紹介文にはこうある。

確かに、序盤は役所広司演じる平山の変わらぬ日常、その静かで慎ましい生きざまが心地よく映る。変わらない生活の中にある小さな幸せ。そのあり方は、固定観念からの解放であり、「こういう生き方もあるのかもしれない」と思わせる。

だが、物語が進むにつれ、その日常がどのようにして形作られたのかが見えてくる。諦観と悲哀。人生の思い通りにならなさ。混沌と滑稽さ。そうした清濁併せ持つ矛盾こそが『PERFECT DAYS』なのだと、ラストシーンの平山の表情が物語っていた。

この映画を観た後、多くの人が「こんなふうに生きられたら」と言う。
けれど、その生活の美しさは、平山の視点の深さにある。その視点は、今の生活の中で自然と培われたものではなく、喪失を経ることでどうしても獲得せざるを得なかったものなのかもしれない。

あの深度で世界を見られるようになるためには、ある種の喪失が必要なのではないか。
ふと、アウシュビッツを生き延びた人の手記にあった言葉を思い出す。

「小さな幸せを見つけ、前を向く力にしていました。どんな環境下にあっても、悲観して絶望せず、淡々と目の前のことをできる人が、一番したたかなのかもしれない。」

人が普段目を向けないような場所にこそ、本当の美しさや真実がある。そして、その美しさに気づくことは、何かと引き換えなのかもしれない。あるいは、その「小さな幸せ」すら、生き抜くために生み出した幻想なのかもしれない。

たとえ幻想でも、人は幻想を生きる糧にする。

幻想だと気づかずに握りしめる人もいれば、幻想だと知りながら、それでもなお握りしめる人もいる。

「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある。」

平山の言葉には、そうした分断された世界を認めつつ、自分の立つ場所を見極めようとする意志が感じられた。

そんな『PERFECT DAYS』を観た夜、私はもう一つの作品に手を伸ばした。

「酒と涙と女たちの歌 3」

番組の紹介文にはこうある。
「トタン張りの小さな建物が肩を寄せ合うように立ち並ぶ飲み屋街。茨城県日立市の国道沿いに、まるで終戦直後にタイムスリップしたような佇まいの不思議な一角がある。12軒の小さな店が並ぶ『塙山キャバレー』。ここには、様々な事情を抱えた客が夜な夜な集う----。」

店に立つママたち、そこに通う客たち。人生の岐路で行き場をなくした者たちが、静かに息をついていた。

『PERFECT DAYS』で感じたことが、ここでも重なっていく。
幻想だと気づかずに握りしめる人もいれば、幻想だと気づきながら、それでもなお握りしめる人もいる。

その幻想が持つ無条件の寛容さに、人は救われる。
それはもはや、宗教のような深さにも近い。

「きれいごとだけでは世界は回らない。だが、きれいごとがなければ、世界は回らない」

この二つの作品を同じ日に観て、心の中にあった点が線になるような感覚があった。

結局のところ、何が言いたいのか。
『PERFECT DAYS』も『酒と涙と女たちの歌』も、人間が前を向いて歩くためには「理由」が必要だということ。

そして人は遅かれ早かれ、多くのものを喪失していく。その喪失の中でしか見えない世界がある。

カメラのF値のように

最初は、すべてにピントが合っているように見えていた。しかし、喪失を重ねるたびにF値が下がり、背景はぼやけ、やがて目の前のほんの小さなものだけが、くっきりと浮かび上がるようになる。

最後にはF2.8、いや、F1.4くらいにまで絞られた視界の中で、名もなき草花にフォーカスがぴたりと合ったとき、人は、それを「美しい」と呼ぶのかもしれない。

その「美しい」が、最後の最後で人が人を持ちこたえさせる「理由」になるのだ。

皮肉を言うつもりはないけれど、『PERFECT DAYS』を観て「こんなふうに生きていけたなら」と言う人の多くは、F32のレンズを首からぶら下げながら、そのレンズでは決して撮ることのできない一枚の写真を見て、「あんな写真が撮りたい」と言っているようなものだ。

それでも、人はその美しさを我がことのようにロールプレイし、一時的な逃避を繰り返しながら、それでも毎日を生きていく。

そう考えれば考えるほど、人間の不確かな脆さが浮き彫りになってくる。
でも、人間の不確かで脆いからこそ愛おしく、おもしろい。

そんな不確実で不安定な人間のありのままの姿が生み出す寛容さのようなものが、結局のところ、一つの救いのようなものにつながっていくのかもしれない。

なむなむ。
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Title: 映画『PERFECT DAYS』とノンフィクション『酒と涙と女たちの歌 3』を観た日
2025.02.12
映画『PERFECT DAYS』とノンフィクション『酒と涙と女たちの歌 3』を観た日 「こんなふうに生きていけたなら――ヴィム・ヴェンダースと役所広司の美しきセッション」 映画『PERFECT DAYS』の紹介文にはこうある。 確かに、序盤は役所広司演じる平山の変わらぬ日常、その静かで慎ましい生きざまが心地よく映る。変わらない生活の中にある小さな幸せ。そのあり方は、固定観念からの解放であり、「こういう生き方もあるのかもしれない」と思わせる。 だが、物語が進むにつれ、その日常がどのようにして形作られたのかが見えてくる。諦観と悲哀。人生の思い通りにならなさ。混沌と滑稽さ。そうした清濁併せ持つ矛盾こそが『PERFECT DAYS』なのだと、ラストシーンの平山の表情が物語っていた。 この映画を観た後、多くの人が「こんなふうに生きられたら」と言う。 けれど、その生活の美しさは、平山の視点の深さにある。その視点は、今の生活の中で自然と培われたものではなく、喪失を経ることでどうしても獲得せざるを得なかったものなのかもしれない。 あの深度で世界を見られるようになるためには、ある種の喪失が必要なのではないか。 ふと、アウシュビッツを生き延びた人の手記にあった言葉を思い出す。 「小さな幸せを見つけ、前を向く力にしていました。どんな環境下にあっても、悲観して絶望せず、淡々と目の前のことをできる人が、一番したたかなのかもしれない。」 人が普段目を向けないような場所にこそ、本当の美しさや真実がある。そして、その美しさに気づくことは、何かと引き換えなのかもしれない。あるいは、その「小さな幸せ」すら、生き抜くために生み出した幻想なのかもしれない。 たとえ幻想でも、人は幻想を生きる糧にする。 幻想だと気づかずに握りしめる人もいれば、幻想だと知りながら、それでもなお握りしめる人もいる。 「この世界には、たくさんの世界がある。つながっているように見えても、つながっていない世界がある。」 平山の言葉には、そうした分断された世界を認めつつ、自分の立つ場所を見極めようとする意志が感じられた。 そんな『PERFECT DAYS』を観た夜、私はもう一つの作品に手を伸ばした。 「酒と涙と女たちの歌 3」 番組の紹介文にはこうある。 「トタン張りの小さな建物が肩を寄せ合うように立ち並ぶ飲み屋街。茨城県日立市の国道沿いに、まるで終戦直後にタイムスリップしたような佇まいの不思議な一角がある。12軒の小さな店が並ぶ『塙山キャバレー』。ここには、様々な事情を抱えた客が夜な夜な集う----。」 店に立つママたち、そこに通う客たち。人生の岐路で行き場をなくした者たちが、静かに息をついていた。 『PERFECT DAYS』で感じたことが、ここでも重なっていく。 幻想だと気づかずに握りしめる人もいれば、幻想だと気づきながら、それでもなお握りしめる人もいる。 その幻想が持つ無条件の寛容さに、人は救われる。 それはもはや、宗教のような深さにも近い。 「きれいごとだけでは世界は回らない。だが、きれいごとがなければ、世界は回らない」 この二つの作品を同じ日に観て、心の中にあった点が線になるような感覚があった。 結局のところ、何が言いたいのか。 『PERFECT DAYS』も『酒と涙と女たちの歌』も、人間が前を向いて歩くためには「理由」が必要だということ。 そして人は遅かれ早かれ、多くのものを喪失していく。その喪失の中でしか見えない世界がある。 カメラのF値のように 最初は、すべてにピントが合っているように見えていた。しかし、喪失を重ねるたびにF値が下がり、背景はぼやけ、やがて目の前のほんの小さなものだけが、くっきりと浮かび上がるようになる。 最後にはF2.8、いや、F1.4くらいにまで絞られた視界の中で、名もなき草花にフォーカスがぴたりと合ったとき、人は、それを「美しい」と呼ぶのかもしれない。 その「美しい」が、最後の最後で人が人を持ちこたえさせる「理由」になるのだ。 皮肉を言うつもりはないけれど、『PERFECT DAYS』を観て「こんなふうに生きていけたなら」と言う人の多くは、F32のレンズを首からぶら下げながら、そのレンズでは決して撮ることのできない一枚の写真を見て、「あんな写真が撮りたい」と言っているようなものだ。 それでも、人はその美しさを我がことのようにロールプレイし、一時的な逃避を繰り返しながら、それでも毎日を生きていく。 そう考えれば考えるほど、人間の不確かな脆さが浮き彫りになってくる。 でも、人間の不確かで脆いからこそ愛おしく、おもしろい。 そんな不確実で不安定な人間のありのままの姿が生み出す寛容さのようなものが、結局のところ、一つの救いのようなものにつながっていくのかもしれない。 なむなむ。
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Title: 上野2015
2015.03.31


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Title: 鳥をね。
2015.01.18 鍋にぶちこんだ。

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Title: ロビンウィリアムス。
2014.08.12

ロビンウィリアムスのでている映画が好きだった。

トイズ・ミセスダウト・ジュマンジ・ジャック・グッドウィルハンティング・パッチアダムス・奇跡の輝き・最高のともだち・ナイトミュージアム
どれも好きだけど。中でも、

「グッドモーニング, ベトナム」の中の「ぐっ~~~~もにんベトナム!!」のセリフと、ベトナムの状況を背景にルイ・アームストロングのWhat a Wonderful Worldが流れるシーンは今でも脳裏にこびついてはなれない。

「今を生きる」は何度もみた。全寮制男子校という当時の自分と同じ境遇の映画ということもありとても感情移入しながら。あの最後のシーン、みんなで机の上に立ち上がるシーン「おぉキャプテン、マイキャプテン!というシーン、今みても鳥肌が立つ。当時机にseize the dayと書いた紙を貼っていたのを思い出した。

この2つの映画はおそらく今の自分をつくる要素の一つになっていると思う。
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Title: 唐揚げとハイボール。49。赤い羽。
2014.01.02

想いっていうのは、とてもシンプルなものだ。

人間というのがなんなのか、なにを信じて、なにを想って死んでいくのか。それはとてもとてもシンプルなこと。

例えばそれは、暖かいご飯で結んだおにぎりなんかにほっこりするようなものなんだきっと。その程度でしかないのだ。でもその程度のことに、心から笑ったり泣いたりできるのが人間なんだ。

ただそれだけなのだけど。ただそれだけのことがわかるのにすごく時間がかかった。時間がかかったけどよくわかった。ぷちっとわかった。

死んでいくまでにできることや、考えられることとか、成し遂げられることというのはたかが知れていて、たかがしれている中で必死にばたつくのだけど、でもやっぱり暖かいご飯で結んだおにぎりにできることなんか超えられないんだ。

だから、だれかを言葉で頷かせたり、やりこめたり、立派になることなんかよりも、おむすびを結べるほうがきっと大切な事なんだ。

正直言えば、それは自分がずっと浅いことだと思い込んでいたところなのだけど、その浅さというものが、深さの対比ではなくて、まさに人間のそのものであると思えたことは自分にとっては大きな一歩で。

この一歩が退化なのか進化なのかとか。

そんな言葉もおにぎりの前では無力であり、不言なのだと。深く確信する。生きる意味とか、出会った意味とか、あの時のたらればとか。それもまた無力で不言だ。

自分が30数年で作り上げてきた世界のなかで、価値がないに等しい物が、ある瞬間に一番価値にある物に変わる。この感覚、この気持ちよさ。この体感こそが生きてることだ。

世界はとてもシンプルに出来ている。
シンプルという言葉も無意味なくらいに。

それをややこしく、がんじらめにしたり、ときに派手なミラーボールで着飾ったり、ヤニくらしたりしたりして、必要以上に魅力的に、そして灰だらけにしてばたつくのが娑婆ダバダ。

今年は、いまこの手の中にのった気持ちを確たるものにする。それだけに費やす。

音と空気をもっと。


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Title: 朝顔咲いた。
2013.07.04


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Title: 上野。
2013.03.26


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Title: いも。
2012.10.19

掘ったど。

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Title: 向日葵。
2012.09.16

ものすごい嫌のことがああったり、とりかえしがつかないことをしてしまって、ああ時間を戻すことができたら絶対にこの状況は避けたかった・・・などと悶々とするということが人生には時々ある。

そういう時には大抵今手の内のあるもののありがたさに気づかされたりする。

昨日まではなんてことないあたりまえのことが、実はありがたいことだったと気づかされるような経験をすると、自分にとっての悪いことは、おい調子にのって、悟ったような顔してると痛い目見るし、満ち足りたような顔して勘違いして生きていると、大切な事を見失うぞといわれてるのじゃないかとすら感じる。

なんてポジティブシンキング。

いいのかわるいのかわからないけど、いいことも悪いことも、マイナスなことは1つもないと思ってる。

たまには冷や水浴びせられないと木に登っちゃうこの愚鈍な我が身。

どうしょうもないことをどうにかしようとおもってもどうしょうもないのだ。

またたんたんと歩いて、また調子にのって、またこけて、そんでまた歩けばいいだろう。

*

アメリカにいるいけすかない友人とこないだ話していて、そのアメリカ人は小学校からのつきあいなのだけど、その友達が、「最近思うのだけど、おれら公園に恵まれてたよね」と言っていた。

小学生の頃そいつは日本にいて、近所に住んでいてよく遊んでいたのだけど、たしかに住んでいた所の周りには恵まれた公園がたくさんあったし、大学の時に、そいつが留学してきて京都で一緒に遊んでいたときにも、自分の下宿先の前の公園でよく遊んだ。

言われてみれば、いつも自分の住んでいる場所の近くにはいい感じの公園があって、うかれてるときも、落ち込んでるときも、どんなときでも公園でその思いを消化したりしていて、公園での思い出というのは自分の中に多いかも知れない。

なんか言われておもったのだけど、自分の今していることや、やりたいと思っていることというのは、そういう小さな記憶や体験の蓄積が影響を及ぼしているのだろうな。

*

遅ればせながら、夏にもらって、子どもたちと蒔いたひまわりが花をつけた。

夏真っ盛りに咲かなかったので心配していたのだけど、このお彼岸前に小ぶりなんだけど、ものすごく生き生きとした花を咲かせてくれた。

みんなの期待を一心にうけつつもいつまでも花をつけずに、じらしにじらして、しらっとこの後に及んで花をつけたとおもったら、すぐに種をのこして枯れていく。

なんかすごく粋なひまわりだった。

*

小学校にあがってできることは小学校でやればいい。幼少期にしかできないこと、その時期にしか学べないことはなんなのかを真剣に考えて実践することと、園児を確保するためになにを打ち出すのかということは時に相反する部分があって、そのギャップを埋められるようなカリスマ性は自分にはまだない。

*

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Title: 青月。
2012.08.31

きれいなまんげつだ。


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Title: ほ。
2012.08.24

振り絞るような蝉の鳴き声が夏の終わりを告げているように聞こえる。

でもそれはきっと気持ちの問題なんだろう。蝉はきっと夏の初めから同じ声で鳴いているに違いない。それが精一杯に聞こえるということは、自分の中で夏が終わりかけてきたということなのかもしれない。

この夏を振り返ってみると、泳いで、食べて、照らされて、笑って、怒って、悲しんで、懐かしんで、出会って、別れて。

ほんとこの1ヶ月の間に、色んなものが流れ込んできて、それに押し出されるように手の中にあったものがこぼれた。

この夏を迎える前と、今では自分はきっと少し違うと思う。

1つのことに意識が向いたときに、頭が自動思考モードみたいのにはいって、身の回りに起きることや、得たものや、失うものや、そういう現実が、1つの答えを導き出すように繋がって、大きな流れに押し出されているようにしか思えないくらいに、道が開けるということがある。

そういう時は往々にして、変えられない人生なんかないんじゃないかという気になる。

自分の考えていることや、あたりまえにもっていた持論が少しづつ変化して、その小さな変化が、習慣に影響してきて、その習慣が自分の行動や言動に作用してきて、そういう自分の生き方が、周りにいる人間すらも変えてくる、そういうつながりと影響が、はっきりと目や耳や肌で感じることができると、本当に人生というのは面白いものだと思う。

*

例えば100人の人がいて、100通りの人生があって、100通りの家族がいて、100通りの想いがある。

あたりまえなんだけど。

あたりまえだからこそ、もう一度その事実を腹で受け止めないといけないのだろう。

それがわかるということは、いわばここ一番で人と人はわかり合えないということだし、同時に最後は人間1人であるという現実をも受け止めるということなんだろうと思う。

それを寂しいこととか、悲しいこととか、そういう感情に当てはめることがもう、自分の勝手な仕分けで、そんな仕分けを越えたところに生きるということがあるのではないだろうか。

むしろ、わかりあえないからこそ、自己はどこまでも愛おしいし、自分が自分を信じれなくて誰が信じるのだと思えるし、そう思えることで、初めて他人もみんなそうであることに気づけるのではないか。

*

最近の自分は、想いや主張や、まげられない気持ちとか、そういう類のものを誰か他人に理解してもらおうと努力するのをやめたいと思っている。

それは視野を広げる努力を怠って、井の中の蛙で、独りよがりでいればいいというわけではなくて。

昔は意見を相手に認めさせようと、バチバチとぶつけて、そこから調和して、自分の世界がこじ開けられて、視野が広げられると信じていたが、ここにきてそれだけでは得られないものがあることがわかったような気がしている。

そうやって広げられるところの限界というのは、いわば人の思考の限界で、人が何かを考えて深めていくときに、想定と想定をぶつけ合っても、想定以上のものにはなりにくいのではないかと思うのだ。

まだ自分の中にあるものがうまく言葉にまとめられないのだけど。

例えば、絵をうまく描きたいと思って、いろんな人の絵を見て、書いて、真似をして、たくさん練習して、うまく絵が描けるようになっても、それは「うまい絵」にしかならないような気がするのだ。

プロセスとしてそれは避けて通ってはいけないところだと思う。

でも描くと言うことはそれで完成ではないし、自分が書きたいのはただのうまい絵の類のものじゃない。

言葉にすると目線がおかしくなってしまうのだけど。

いま自分の思考や立ち位置や他人に対する距離感の取り方というのは、いいか悪いかは別として、自分の中で信じるに値すると思ってる。いままでは、自分の中にあるそういうものに、確固たる信頼というのがなくて、ぶらぶらしたり、ふらふらしてる自分にいつだって自分自身が危うさを感じていたのだけど、今は不思議とそれがなくなったように思う。

もちろん同時に、井の中の蛙で、独りよがりになるような危うさもないし、他人を認める事や自分が変わることや、そこに付随して誤解されたりすることにある種の怖さみたいなものもなくなった。

とどのつまり。

うまい絵よりも先に行くときに避けて通れないのは、自分とどう向き合うかということじゃないかと思うということで。

昔よりも少し、変わることや、失うことや、誤解されることや、傷つけられることや、だれかと比較して悶々とすることや、理想と現実のギャップとか、そういうものは、自分勝手な仕分けだと思えるようになって、そういうことに右往左往しなくなった自分がいて、そんな自分ができてきたからしばらく、そんな自分と二人だけで、じっくり脳内対話をして過ごしてみようかと思っているということがいいたいのだと思う。


*

FBやtwitterでいろんな情報にさらされて、色々思わされたことが、ここにきて自分を変化させる要因の1つになってくれたのは間違いないし、フォローしてくれたり友達認証してくれた人達へ向けて、自分がいかにあちらこちらで自分を使い分けていたかも知らされたし、でももうシステム上切り分けたりはできないからいたしかたないと腹括ったことで、自分の中でふっきれたものもあるよってこと。

*

それでもまだまだ首をもたげてくる、自己顕示欲とか、優位性の主張とか、そういうどうしょうもないものが見え隠れすればするほど、いよいよ自分の中で、修養がすすむってなもんで。

*

どえりゃあねむい。

*

ほ。


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Title: 箱ね。
2012.08.24

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Title: ちんこん。
2012.08.15

葉っぱが緑色なこととか。空が青いこととか。雲が白いこととか。

それっていつだって目に入っているのだけど、でもそれは目に入ってるだけで、時々それをちゃんと見てみると、その1つ1つが纏っているものが本当に素晴らしく愛おしいことなのだと思う。

そうおもうと世界は限りなく広い。

なんて妄想を、耳障りよく言葉に紡いだところで、そんなものはウニ1つ踏んづけたら立ち所にかき消えてしまうのだ。

足の裏がズキズキして、なんで自分がこんな目にとか思うのだ。

たった1つのウニで、有頂天から真っ逆さま。

それが人生なのだな。

もやっとのほほんと、夢見心地でいる時に、顔に水をかけてくれる存在こそが善知識なのかもしれない。

そう思えばウニも善知識なのだ。

そういうきっかけがあちらこちらに落ちているからこそ人生は面白い。

足の裏のトゲをさすりながら、やるなウニめ。とかのたまわってみる。

そんな終戦記念日。

目を覚ますのはまず自分だな。


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Title: ねじまきし
2012.08.08

暦では立秋を過ぎて、これからの暑さを残暑というそうだ。

島から戻ってきて、存分にいろんなものを浴びてきて、ほっと一息ついたら夏も残り香らしい。でもまだ折り返し、もう少しだけ夏っぽさを味わっておきたい。

島では毎朝、日が昇る頃には布団を這い出して、朝の散歩をしていた。近くの海岸に座ってじりじりとあがってくる太陽を眺めながら考えていたのだけど。

やっぱり自分にとって、体感することというのはすごく大事で、夏とか海とか、空とか、朝焼けとか、想像の中でこんなもんだろうと線をひくのはいくらでもできるのだけど、でもやはりそこに行って、見て、感じて、それを自分の中で反芻することで、ふと気づかされたり、頭ではないところでわかる事があったり、あたりまえにあるものの価値を再確認したりできたりして。自分はそういう足下を確認するような作業が好きなのだ。

そして最後の最後は、そういう作業を得て自分の中に残ったものがここ一番で説得力をもって背中を押してくれるのだと思う。

人生を楽しもうという姿勢はだれにも干渉されるべきものではないし、誰になんて言われようと、死ぬまでのあと数十年の間、人生楽しんで生きていきたい。

自転車にのって坂を下りながら、身体で風を感じながら、夏色を口ずさみながらそんなことを思ったりもした。

曖昧というのはわからないものをぼやかすための言葉ではなくて、白と黒の間じゃなくて、それだけでしっかりと独立した1つの答えなのだと思ってる。

答えの数は感性の数だけあっていいのだと思う。

この夏と秋の境目とか。



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Title: みたまいる。
2012.07.16

今年のみたま祭りは三連休とあってここ数年にない人出だった。普段いろいろもちゃもちゃと思うこともあるのだけど、毎年この時期にここにくると、日本が平和になってよかったと素直にそう思える。


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Title: 金環日食。
2012.05.21

微妙だけど金環。

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Title: サクラサクラサクラサク。
2012.04.09

満天の桜はまるで宇宙みたいで、じっとみてるとふとのみこまれそうになる。

毎年同じ事をいうようだけど、今年もやっぱり死ぬならこの時期にしたいと思った。これから自分の進むべき道が、どんなに苦しくてどうしょうもない人生になったとしても、最後にこの時期に死ぬことができたらそれだけで自分の人生は100点で終われると思う。

でも今年言われて思ったんだけど、それって1年のうちに10日くらいしかないのだな。そこを狙って命尽きる確立ってばそうとうひくいか。でもそこを狙うんだ。きっとそこで死ぬ。

毎年口に出してたらそのうち叶うだろう。

ここのとこ桜の写真を撮りながら思ったのだけど、自分の撮りたいものは、空気で、光で、その時の自分の気持ちのすべてなのだ。自分にとっての写真というものの位置づけはそこなんだということがよくわかった気がする。

そこでもFBシンドロームが首をもたげてくるのだけど。イイネ!がほしいが為に撮り始めるときっとおもしろくなくなる。もっとわがままに、自由に自分の中の湧いてきた心や、気持ちよさをそのまま凝固させて、それを見ればいつでもそこに帰れるようなものを残しておきたいと思った。

結局の所、ここでも自分ってのはつくづく自分勝手なもんだと思う。

誰かに評価される枠に収まったら絶対にそこ止まりだ。だれにもわかんないような、誰にも理解されないような、どうせわかりっこないぜ、わかられたってたまんねぇもん、みたいなところで生きていきたい。そしてそこで生きるためのタフさもっともっとほしい。

誰かの為に生きてるような人間にはなりたくないとか青臭いこと言って、誰かの為になろうと思ってる奴にはたいしたことなんかできやしないとか、とげとげしいことを言いたくなる自分に手を焼きながらも、そういうざらついた部分が自分の中にあってよかったし、なくなってほしくないとも思ってる。

サクラサクラ。

サクラサク。



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Title: 2012上野
2012.04.07

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Title: しだれた。
2012.04.03


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Title: 雪夜。
2012.01.23

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Title: 藤子不二雄ミュージアム。
2012.01.16 九九ももう完璧。


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Title: 消しゴム。
2012.01.14

写真撮りたいのに撮りに行けないから、しかたなしに机の上の消しゴムで我慢する


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Title: キングオブメンチ。
2012.01.07

@谷中銀座

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Title: 大晦日。
2011.12.31

こうして2011年も幕を閉じるのです。来年も楽しんで生きましょう。


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Title: X100
2011.12.30

お年玉と誕生日と自分へのご褒美と称して・・・むふ


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Title: 小寒
2011.12.10

結局のところ幸せなんていうのはこんな1日で満たされるようなものなのだ@浅草

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Title: 海に続く道。
2011.12.07


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Title: 真夜中の晴天。
2011.12.07

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Title: 小石川植物園
2011.11.23 小石川植物園。

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Title: 夏の終わり:02
2011.09.11


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Title: 夏の終わり:01
2011.09.11


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Title: 神楽坂。
2011.06.22


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Title: ことり。
2011.06.06


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今日園で小鳥が亡くなっていた。 

子どもたちと穴を掘ってお墓をつくった。 

みんなで花をつんできて供えた。 

子どもたちが、いままでありがとうだね。といって手を合わせていた。 

なんかそんな光景をみていて、ああこういう場面に立ち会える仕事をしていてよかったなと思った。 


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Title: せった。
2011.05.30

夏に向け雪駄を新調した。今年は細かく注文をだして願いをしたのだけど、思った以上の出来に感動。


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Title: 御遠忌
2011.04.24

goenkisite-1.jpg初日中法要 | コメントを書く (0) | Trackback (0)
Title: 2011 うえの。
2011.04.11

sakura2011.jpgのサムネール画像

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Title: 満月。
2011.03.19


満月。今日の月は特別だそうだ。

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Title: 蒲田行進曲。
2011.01.09

こないだ初めて蒲田に上陸した。そしたらこんな怪獣がいた。

 

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Title: 過去のブログはコチラ
2000.08.18

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