Title: 慈心。

11月だというのにこの気候。

身体もどのタイミングで冬眠すればいいのか考えあぐねているのだ。

今日身近な人を見送った。

久しぶりに親戚一同集まって思い出に花を咲かせたりして、いつまでもあの時代の話をしてた。

うちは親戚が多くて近いから、ことある事に親戚がみんな集まって、子どもたちは子どもたちでお寺の中を走り回ったり、写真やの親戚がくれた大量のフィルムケースの中で泳いだり、めずらしいカメラを見せてもらったり、メカニックのおじさんはいつも車の話をしてくれたり、山が好きなおじさんは山の話をしてくれたし、将棋も囲碁もみんなおじさん達から教わった。いつもわいわいああでもないこうでもないと話をしているのを横で聞いてるのが好きだった。

あの時代の自分は、いつまでもこれが続くのだと思っていた。

でもいつからだか、変化していくことを意識するようになって、変わっていくとはこういうことなのだなということを、自分は親戚たちから学んだ気がする。変化していくことがたまらなく嫌だったりもしたのだけど、最近は変化することを受け入れられるようになったのと同時に、いつのまにか自分も親戚の中で、ちゃんと「今」をつくる担い手みたいなものになっていくのだろうと漠然と感じるようになった。

こうやって身内を一人二人と見送っていくことで、気づかされたことや、大事な人を見送る人の気持ちもたくさん学ばせてもらったと思う。

通夜葬儀を自分でやるようになって、頭ではわかっているんだ。

自分が悲しくて寂しくて、つらければつらいほどに、ここが娑婆であって、兎角この世は苦しみにあふれている。でも亡くなった人の顔は、悲しむ自分たちをよそ目にとても安らかで、まさに仏さんみたいで、もう痛くもかゆくもないし、苦しいことなんか何もないし、間違いなく浄土へ還ったのだと思う。

間違いなくこの世とあの世は隔絶されているし、だからこそ、ここに救われるしかない自分たちがいるのもよくわかるし、そこに本願があることが本当に頼もしく思える。

だから暗い釜の中に送られるときも、お別れですの一言にも昔みたいに、どうにもならないくらいにモヤモヤしたりはしなくなったし、悲しみにも寂しさにもある程度納得できる自分ができたと思う。

今回も親戚が亡くなった日から、今日の葬儀まで時間があって、その間にいろいろなことを考えながらも、どちらかといえば晴れやかな気持ちでいたし、なんかお浄土も、親しかった人が増えてきて、だんだんいいところになってきたような気すらすしていたのだけど。

それなのに今日はいてもたってもいれないくらいに悲しくて寂しくて、そんな自分が垣間見えたときに、なんかいよいよ自力というものには限界があるのだと思った。昨日まで本当におどろくくらいに静かな気持ちだったのに。

こういう時に声をあげて泣けたらどんなにいいだろうと思った。

もう理屈じゃなくて、救われるしかないのだ。

人間は一人でなにかを乗り越えられることはできないのだと思う。

それと、もしかしたら「悟る」ということは、こういうときに声をあげて泣けることなのかもしれないと思った。まだまだ自分はなにかにしがみついてて、抗ってて、理屈をこねくり回してる。

それを手放さなきゃ見えるものも見えないのだろうな。

願わくば誰も死んでほしくないとすら思う。

でも、残された親戚の顔を見ながら、少なくともあとこれだけの数だけ自分は見送らなければならない可能性があるのだと思ったら、とてもつらいのだけど、でも同時にこれだけたくさんの縁に囲まれているのだということは本当にありがたいことなんだと思った。

それと、昔は誰かに名前をつけてもらうことが多かったのは、それは人間はだれかと共存して生きていくものだというのが当たり前だったから、だれか自分が大切だと思う人に名前をつけてもらうことで、その人との縁を子どもにつなげたいという想いもあったのかもしれない。それはつまりは、きっと今よりも縁と結びつきがつよかったということなのかもしれない。

縁なんだ。

全部。

生きるも死ぬも。病に伏せるのも老いるのも。

人と関わるのも関わらないのも。

涙を流すのも流さないのも。

いいこともわるいことも。

縁にいいも悪いもない。

縁なんだ全部。

縁は、願っても願わなくてもつながっていくものなんだ。



POSTED @ 2011.11.08 | Comment (0) | Trackback (0)

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