Title: 聖道浄土。

最近の原発反対などの動きをみていて、なんとなく「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」という言葉が腑に落ちてきたような気がする、同時に「急ぎ仏になりて」ということの意味もおぼろげながら見えてきた気がする。なんか震災以後もやもやしてたことが歎異抄を読み直したことで少し晴れてきた気がする。

以下歎異抄4章原文


慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。

聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。

浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、
大悲大慈心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。

今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、
存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。

しかれば、念仏もうすのみぞ、
すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々


簡単に言うと、おそらく、原発に反対する運動をすることや、被災地を物理的に支援することなども含め、つまりはその先に個別の対象(被災者・又は原発の被害に遭うであろう人達)がある場合の行動というのは、はっきりいえば、どこか側面的であるというか、常に正しいか正しくないかの判断で両極端の考え方が両立する可能性のあるもので、いわばその可能性を1%でも秘めている行動を「聖道の慈悲」と言い換えてもいいのではないかと思う。これは純粋に目の前の事象をあわれみ、かなしみ、はぐくむ心と言い換えてもいいのだと思う。

この個別の事象に対応した、「悲」をいわば小悲といってもいいのではないかと思う。

しかしその心をもって誰かを助けようと思っても、本当の所思うように誰かを救うというのは想像以上に難しい事だ。そして「小悲の慈悲」によって解決した問題の多くは、その対象における苦しみ(今回であれば、地震や津波、原発の問題)が解決されたとしても、次にまた同じような事象が訪れたときに同じように苦しみが生まれ、同じようにまたその苦しみに立ち向かわなければならない可能性があるということにもなる。 

しかし一方で、「浄土の慈悲」というものを考えたときに、震災に際していうのであれば、被災したこと、又原発が原因で苦しんでいることという個別の対象を越えて、たった一度のこの被災で、どんな幸せも吹っ飛んでしまう、又どんなに心穏やかに生きていてもこの、自分の外から来る要因で一気に心乱れ悲しみに暮れてしまうという事実に、人間というもののあわれ、そしてその現実の中で生きとしいけるすべての人のこの運命に対する「悲」

これは各個別というものを越えて、人間というものそのものに向けられた「悲」つまりは大悲ではないかと思う。そしてこの「大悲の慈悲」をもって問題に取り組めば、あらゆる事象における場面において、同じ答えで臨むことができると思うのだ。

震災以後自分の中でひっかかっていたのは、震災復興に対する立ち位置はどれもどこか側面的で、誰かにとってのベストは誰かにとってのベストではないというのが正直な気持ちだった。

その中で自分はどの立場の人間にとってベストな行動をすればいいのだろうか。ということを悶々と考え、考え過ぎなのもわかっているけれど、正直立ち位置を考えあぐねていたのです。

そして先日歎異抄を読み直しているときに、4章のこの言葉が自分の中にすとんと落ちてきた気がした、自分は、被災地に足を運んだわけでもない、原発反対を表明しているわけでもない、なにか継続して物理的な支援ができているわけでもない。

しかしこの震災を通して、人間のはかなさと、もろさと、幸せとはなんであるかということを痛いほど感じて、そしてそれをどうしたら払拭できるか考えている。そしてその考えたことや、感じたことの答えを仏法の中にみつけ、体感して、それを実践還元することで、少しでも今よりも人に向き合えるきっかけになるのではないかと思うし、そういう僧侶がいてもいいのではなかと思ってる。

そして同時にその中で、大悲に深く気づかされることではじめて本願に火が灯るのかもしれないと思っている。

結局の所自分自分に聞こえてしまうかもしれないけど・・・それをつきつめていくと、 正定聚ということも、いそぎ仏になりてということも繋がってくると思うのです。

そしてさらにいえばここではじめて、往相回向・還相回向などの言葉にも血が通ってくる気がするのです。

ともに真宗よりで真宗的な考え方であり、まだまだ熟考の余地だらけなのだけど、いまの自分の中で体感として感じる御了解を備忘の為に残しておく。


POSTED @ 2012.01.30 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。