Title: 鴨南蛮。

ある人とはなしていて改めて気づかされたのだけど。

例えば、自分が怒りとか、悲しみとか、好きとか、そういう感情的な部分について考えるときには、怒ることをなんとか押さえようとか、悲しみを忘れようとか、好きになっていいんだとか悪いんだとか、そういう思考になっていないのだ。

よくもわるくも湧いたものはしょうがないと思ってるし、思考のスタートはそこからなのだ。

ある人(45才未婚そばや店主)が、彼女に別れ話を切り出されたから、好きな気持ちをなんとか抑えなきゃいけないし、今忘れようと努力をしているのですといっていて思ったのだ。

好きな気持ちって、頭で考えてどうにかなるもんなのかね。

振られたから、よしゃ切り替えてってできるものなのかね。きっとそうじゃないのもわかっているのにそうしないと、どうしょうもないから努力をする気持ちもわかるのだけど。あるラインまでならそれでいいけど、あるラインをこえたらそんなことは無理なのだと思う。

はっきりいって見当違いな努力なのじゃないかと思う。

これは好きだけじゃなく、悲しみも怒りも同じ。

思うに、その好きな気持ちが湧いた自分を理屈でねじ込もうとしたり、とりあえず目を背けたり、物理的なことで一時的に回避する努力は、その感情が湧くこと自体を否定しているような気がして、なおかつ、いうなればそれは感情と裏腹の行動をするということで、そんなことを繰り返していたら、本当に大事なときに素直な気持ちになれなくなりそうな気がするのだ。

そしてそれが心に歪みとかギャップをつくるのではないだろうかと思う。

子どもたちを見ていて思うのだけど、子どものもつすばらしさはそういう心に歪みが少ないことだ。

だからまっすぐで、そこから発せられるものには芯に心を打つものがあるのだと思う。

大人になるのは、自分で勝手にそういう心と裏腹の行動を課して、心に歪みをつくることを習慣として、その習慣の中で、頭でっかちになって、そのうちにいろんなところが鈍くなって、本当の気持ちがなんだったかすらわかんなくなった状態のことをいうんだきっと。

その人(45才未婚そばや店主)には、まあ、そんな必死に忘れようとしてもなかなか難しいでしょうし、簡単にできるわけではないし、ゆるりといけばいいんじゃないですかねといったのだけど。

思うに、自分の中に湧いてきた感情を断ち切ろうとか、目を背けたりするのではなく、まずそれはそれであきらめて、せめてどこにも行き場のないようなその感情で自分とか相手とか、それこそ関係ない誰か傷つけないようにするにはどうすればいいのか考えることにシフトして、前に足を出す努力をすればいいんだと思う、

つまりは尖った感情の切っ先を丸めるように、感情に飲み込まれてそれを振り回すことがないように努力すればいいのだ。その為の努力や習慣づけを仏教的にいえば行というのかもしれないけど、まずは自分の中にあるものを認めるという所に立つと言うことが大事なのだと思う。

なんて。

きっと今、この話を自力と他力にうまいこと絡めながら、最後にその答えはこの教典の中で親鸞さんがこう言っているだけどね・・・なんていえば、浄土真宗に勧誘できるのかもしれない・・・なんてことを妄想しつつ、やっぱ自分の思考の中にはけっこう仏教とか真宗っぽい考え方が染みついているのだなと思ったし、すぐにそういうところに結びつけようとする癖をなんとかしなきゃなと思うのだけど、これもまたどうにもならないのだ。

なんか感情に裏腹な行動をしなきゃ保てないものなんかいらないと、必ずしも言い切れることばかりではないけど、できるだけその摩擦を少なくして生きるということがなんだかんだ幸せになるコツなんではないかと思う今日この頃。


POSTED @ 2011.09.29 | Comment (0) | Trackback (0)

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