Title: 無常。

仏教の根本的な思想として「無常」というものがある。

よく聞く言葉だし、それを言葉ではわかっているような気になるのだけど「無常」というのは、理解するだけでなく、自分の中に落とし込めたときに初めて行動としてそれが表れるようなものだと思う。

「無常」というのは言い換えれば、明日が必ずくるとは限らないとうことであり、今がずっと続くということはないということだし、今目の前の人との関係は、この瞬間の積み重ねであるということであり、いつまでも惰性で永遠に続くものなんてないということである。

それを体感として感じることができたらそこで「幸せ」の価値観は一変するし、そもそもの「苦」とはなにかということは必然的に浮き彫りになってくるのではないかと思う。

よりよい社会や未来の地球の為になにかを変えようとしたって、原発がなくなっても、極端なことを言えば、温暖化が進めばいずれ地球を捨てるときがくるかもしれないし、隕石でもかすめれば地球も終わりかもしれない。そんな大きな話じゃなくたって、隣の家が火事になって自分の家も丸焼けになるかも知れないし、地震や洪水に巻き込まれるかもしれないし、いつ戦争がおきるかだってわからない。

今は平和だからこそ、余計な苦しみを自分から生み出して、それを憂うことで自らの首を絞めてしまいがちなのだと思う。

自分の生活や、生きると言うことはそういう何時起きるかわからない不可抗力の上にあるのだということが、いわば「無常」の中に生きているということなのだと思う。そして「無常」というのはなにも特別な事ではなく、既存設定名あたりまえのルールなのだ。そのあたりまえのルールすら自分の都合でなんとかしようとするのが人間なのだ。

その「無常」に生きる自分たちがいかに幸せに生きるかということを説くのが仏教であると思う。

それはつまり、例えるならば、朝起きて一杯お茶を入れて静かにお茶を飲むときに安らぐ気持ちや、ここちよい風に吹かれて幸せだなと思う心、お風呂にはいっておもわず声をもらす気持ち。目の前にいる大切な人と顔を合わせてたわいもない話をするときの気持ち。

幸せは、その積み重ねであり、今この瞬間にあるものをしっかりと認識して生きると言うことではないかと思う。

人間というのはそこしかないのだと思う。

その点の積み重ねが人生であり、幸せの形なのではないかと思う。過去は過ぎ去って、未来はまだ来ていない、自分の手の中にあるものは今しかないのだ。

状況や環境を変えることで幸せが得れるというのだとしたら、仏教は、もっといえば宗教というものは意義を失う。

それがわからなければ決して救いはないのだと思う。

仏陀は貧乏な人にお金持ちになれとはいわない。お金持ちに平民になれともいわない。仕事のない人に仕事をしろとはいわないし、仕事で苦しんでいる人にやめればいいともいわない。

置かれた状況の中でそれぞれにそれぞれが苦を抱えている、その苦を生み出しているものはなにかしっかりと智慧の目を開いてみろといっているのだ。

環境を変えることがたやすいのなら、みんながみんな苦を遠ざけていきればいい、それができないからこそ宗教があるのだ。そして仏教おける救い、特に浄土教においては、そこがわからなければ、決して救いは見えてこないのだと思う。

ここでじゃあ救いってなにさとか、そういうことを数珠玉のように話しながら、考えられる環境があったら幸せだ・・・なんて思った自分もまた明日ありと思って生きているわけで、どんなに意識をしようと思っても難しいからこそ、それをまるっと救ってくれる存在が必要になってくるわけで。

それを阿弥陀というわけです。


POSTED @ 2012.07.04 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。