Title: 動静。
例えば、だれかすごく嫌な奴がいるとか、どうしょうもなく理不尽な思いをしたとか、そういう愚痴を聞くときに、目の前の人の気持ちをくみ取って、そうだね、わかるよとか。ほんとそいつは嫌な奴だね。そりゃほんと一方的に理不尽だね。と言えばきっと話している方は、自分の気持ちをわかってくれると思って肩の力が抜けたり、楽になったり、救われることはあるのだろうと思う。
そこで、いやそれは相手にも言い分はあるし、なんでそういうことをいうか考えてごらんよ。自分の中にも落ち度はないかい?とか、一方的に理不尽だというけど、自分も同じようなことをしたことはないかい?とか言おうものなら、あいつなんだよ、全然自分のことわかってくれない。わかったような顔してむかつく。と言われるのが落ちだろう。
でも最近思うのは、
もしも、気持ちが落ち着いて、冷静に自分のことを振り返られるようになったときには、一方的に自分の言い分をうけいれてくれて、一緒に誰かの悪口で盛り上がったり、世の中の理不尽を無条件で認めてくれた相手と、その時に自分の見えない部分を指摘して、思い通りの言葉をくれなかった相手がいたとしたら、きっと後者の方がなにかを自分の中に残してくれるのだろうと思う。
きっと気分を変えれば乗り越えられる問題くらいなら前者でいいんだ。でも、人生には決して目を背けるだけじゃ乗り越えられない問題にぶつかるときがくる、その時に自分が相談したいと思うのは後者だと思う。
もちろんいつも偏屈に、相手の言うことをぶったぎるのではなく、ちゃんと気持ちをくみ取りつつも、自分の内面に目を向けさせてくれるような言葉を選んで使えるということは大切なことだと思った。
それはいうなれば、動の中にもいつも静があるような生き方というのかもしれないと思う。
きっと方便を通して待機説法をするということはそういうことなのだろうと味わう。
つまるところ僧侶の本分というのはそういうことなんだと思う。
でもそれはものすごく難しいことで、使い方をあやまれば自分も傷つくし、とてもこわいことだと思う。生半可な自分じゃ頑なになって、意固地になるか、わかったような顔で相手を煙に巻くか、途中でびびって相手に迎合するのがいいところだろうと思う。
そんな自分だけど、今日法要をしていて思った。
なんか手前味噌な上に、気分が昂揚しているのもあるのだけど、きっと追悼法要をしたりしても、現地にいる人たちからしたら、法要なんかされたって、生活楽にならないし、それよりもいまは物理的な支援だと、そんなピントのずれたことをされても困ると思う人もたくさんいるだろうと思う。
でもきっと、それでも僧侶は祈るし願うし、手を合わせると思う。
時に本堂に何百人も集まって手を合わせると思う。
それは無条件にあるもので、きっとそれは今だからというものではなくて、いままでも、これからも。
それが僧侶の本分だからだと思う。
祈るだけかよ、何かを願うことしかできないのかよと思うかもしれないけど。
何を言われても、変わらないし、いつも変わらずに手を合わせられるようにありたいと思う。
そして、動の中にもいつも静を。
その静とはつまりは本願であり、もっといえば仏法なのだろうと思う。
きっと震災がなければ、自分は僧侶の本分なんて考えなかったかもしれない。
この震災の中にも、阿弥陀の回向はある。その言葉を何度も自分の中で反芻する。
一見誤解されそうな言葉だけど、本当にその通りだと思う。
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ。
親鸞聖人750回、法然上人800回の御遠忌、この節目に重なるようにこのような震災が起こって、この1年というのは自分の人生にとってきっと大切な年になるのだと思う。
味わうように毎日を。
POSTED @ 2011.04.24 |
Comment (0) |
Trackback (0)