自分というものを作り上げているのは、ここに至るまでの多くの縁である。多くの偶然や必然が奇跡的に重なり合った結果である。生まれた瞬間から、人間はその不可抗力とも言える縁の蓄積によって変化し続ける。刻一刻と、この瞬間でさえもその縁は蓄積される。
気温、湿度、匂い、お腹の具合、そして疲労や眠気、そういうすべての要素が今の自分の今の行動、今の思考をつくる。
自分自身というものはそういう刻一刻変化する縁の中で常に流れ続けて存在している。無常の中のその存在は唯一無二である。生まれ落ちてここ至るまでの全ての要素を持ちうる他人はいないのだ。
天上天下唯我独尊という言葉は、ただ自分だけが尊いという意味ではない、生きとし生けるもの全て、この唯一無二の縁の中で刻一刻に生きている、すべてが唯一の存在であるという事実そのもの。
自分も、他人も、草も木も、生まれた場所や、そしてそこに繋がる人、たくさんの縁の中に今日まで生きている。
そのたくさんの縁は人間の範疇をゆうに超えていて、人間の分限をはるかに超えている。それは「運」というものとも違う。「運」という言葉には良し悪しがあるが、縁に良し悪しはない。縁は一見した善悪の範疇も超えている。
人間は寿命という限られた時間の中で、この不可抗力である「縁」と呼ばれるものの存在を認めざるをえない状況に何度も出会い、直面し翻弄される。
その縁を生み出している「なにか」が「何」であるかは人間にはとても量りようがない。その量りようのないものに、人は時に畏怖し、時に崇敬し、時に翻弄される。その過程の中でその「なにか」に様々な呼び名をつけるのだ。それは時に仏であり、神である。
そして阿弥陀でもある。
自分が選ぼうとも、選ばずとも、この瞬間にふりそそいでくる縁の中に生かされている自分は、もはやその「なにか」のもたらす縁の中に奇跡的なバランスに生きているともいえる。
「南無、阿弥陀仏」つまりは阿弥陀仏に(南無)帰依するというのは、その阿弥陀という何かに身を委ねるという意識の表れであるともいえるわけだが、その縁ともよべる働きはすでにもうこの瞬間自分自身の中に流れていると考えると、南無自分自身、南無空、南無草木、南無あなた、であったとしても、その響きはそれはそのまますなわち南無阿弥陀仏なのではないだろうか。
自分の外に仏があるということは、それはつまりは同時に自分の中に仏があるというなによりの証拠になりえるのではないだろうか。
私は仏である、という言葉はとてつもない危険性をはらんでいるのだけど、でも間違いなく、自分自身の中にこそ如来があるのかもしれないと思うことがある。
もし、仏が自分自身であり、同時にすべてのものであるのだとしたら、この一瞬の価値観は大きく変容する。目にうつるすべてのものに降り注ぐ縁がこの瞬間を、まさに刹那につくりあげているのだとしたら、次の刹那にある一瞬もまた、奇跡なのだ。そして生きるというのはその奇跡の中で、人間の介在できる範疇をはるかに超えた無常の中に浮かぶことなのだ。
この瞬間こそがもうすでに救いなのだ。そして次の刹那こそがもう掬い取られている証拠なのだと。
付随して。
誰かを想う時に。
本当の意味で求め合うということは、感情を超えた縁が先に来るもので、感情はそこに付随しているにすぎないのかもしれない。