Title: ふつふつ。

なんか昨日はいい酔い方をして、夜道を歩いていたら、お腹の底からふつふつといろんなものが湧いてきて。

そのふつふつが朝になってもまだぐつぐつしてて。

なぜか世の中に悪態つきたい気分なので野狐禅を聞きながらぐちぐち。

# Facebookについて

Facebookをはじめて、なんかひっかかっていた違和感が最近自分の中で確かなものになってきた。

初めに断っておきたいのは、決してFacebook批判をしたいわけじゃなくて、使い方と、心の置き方の問題に対して思うことがあるというだけの話なのだけど。

はじめに、Facebookに違和感を感じたのは、リアルな友達の反応をみていて、Facebookの上でのコメントやイイネ!とかそういうものが、面と向かって飲んでいるときの反応とはあまりにもかけ離れているからだ。

いつからみんなそんな大人になっちまったんだと思って寂しく思ってたら、一緒に飲むと全然そんなことなくて、なんだよそう思ってるならそう言えばいいのに。みたいなのが多くて、結局の所Facebook上の人格は、建前と体裁であることが多いということだ。

それをみんな平気でもう大人だしねという言葉で片付けたりすると言うことがどうにも腑に落ちない。

無論みんながみんなそうではないし、なかにはこんなことを言われても「??」と思う人がいることも事実なのだけど。それは割合の問題。

それとある人がFacebookは鬱を助長してるといっていたのだけど。

思うにFacebookで発信することは、言い換えればそれはそのまま、自分が他人からどうみられたいかなのだし、それを真に受けて、みんなあんなに充実してるのに、自分は・・・なんて思う必要もなければ、更新の頻度や内容なんて、寂しさや孤独感でもあるし、自己顕示欲と、承認欲の強さみたいなものなんだから、決してきれいなもんじゃないと思えばいいのだと思う。

それと、しばらくFacebookに記事を書いていると、なんとなくどんな記事を書くと、イイネ!がもらえて、どういう記事を書くと反応が悪いかとか、そういうことがわかってくる気がする。

というよりも言い方を変えれば、どういう記事をかくとみんながイイネを押さざるを得ないかということがわかるような気がするのだ。

それが顕著なのは、ちょっといい話やがんばってる話や、被災地に関わることや、自分にはそれがわかるよ!みたいなことで自分のアイデンティティを誇示できるような記事など、そういう記事を書いたときに、それにイイネを押さないと自分が浮いているような錯覚をおこさせられるということだ。

それに、例えば今書いているこの文章をFacebookにのせたときに、イイネを押す人と押さない人と、コメントを残す人と残さない人で、ある程度カテゴリーがわかれると思うし、つまりはそれも自分がどのカテゴリーにいると見られたいかによって反応が変わるのだろうと思う。

それと、イイネ!機能について、自戒を込めて言うのなら、一方的に記事を書いて、その内容が平面的でたいしたことを言ってないのに、たくさんの人からイイネ!をもらうと、さも自分の意見が正しいかのように錯覚してしまうのだ、面と向かって話してれば、それは違うよというニュアンスをお互いに感じ取れるのに、SNS上ではそれができないので、そうして自分の思考が変な形で凝り固まってしまう可能性というのを頭に入れておかなきゃいけないのだと思う。そしてイイネの数は決して正しいか間違っているかのバロメーターではない。

特に、宗教に関していえば、イイネ!をたくさんもらえるようなことしか言えないような宗教者なんてたかがしれているのだと思う。

Facebookが生み出された背景というのは、おそらく人間が人間を知りたい、身近な人と簡単につながりたいという欲求から生まれたものなのだろうけど、こうしてこのシステムが普及してくる中で、本来の意図は消え去り、よく見えるようになったことで、いままでよりも見えなくなったようにしか思えないのだ。

その大きな原因はやはり原則実名での登録ということなのだろうけど、Facebookをやっていて、人間というのは、自分を見られれば見られるほど、手を後ろ手に隠すのだと言うことがよくわかった気がする。

その中で、強い人間というのはそれだけ見られても、手を後ろ手に隠さない人間であり、そういう人間だけがもっている力というものが存在するのだということもよくわかった。

なんか書き始めたらとまらないのだけど。

なにがいいたいかと言えば、やっぱり人間に関わる問題において、本質は目に見えるところよりも、目に見えないところにこそたくさんあるのだということなのだと思う。

こんなことを言いながらもきっと自分はこれからもFacebookを使うし、イイネ!とかコメントとか書いたり書かれたりしながら人との距離を測っていくのだろうなと思う。

この世の中は、家にいながら直接顔を見ないでも、簡単に人の心をかき乱すことができるツールがあふれている。だからこそそのつきあい方や心の置き方を自分で学んで、ある種の自衛能力と、心構えをしっかりしておかないと、ツールを使っているようで使われてるのに、それにすら気づかないという状況に陥ってしまうような気がする。

ご用心ご用心。

蓮は泥の中にしか咲かないのだよ。

# 被災地のこと #

少し前に、被災地で見つかった携帯に、娘から父親にあてたメッセージが残っていたという記事を見た。

それをシェアしながら、多くの人がいろいろなことを言っていたのだけど、もし自分が最後の最後に誰か大切な人に向けてメッセージを残したとしたら、それをネットにさらされて、全然関係ない人に色々なことを言われたくない。そんなのわかったふりされたってたまんないもんと思う。

なんか、きっとそれを読むことで、いろいろな想いや行動が生まれたりすることもあると思うし、いいとか悪いとかではとても判断できることではないけど。

自分としては、人の手紙をみんなで回し読みしてるみたいで、あんまり気分良くないし、なによりもそういうのって無粋だと思う。

それともうすぐ震災から1年だけど、美談やちょっといい話をひたすら流すのだけはもうやめてほしい。それが一体なんだというのだ。

熱に中てられたような曇った目では現実はなにも変わらないのだ。

# お金の話 #

どこかに所属してサラリーをもらうということ以外に、お金を得る方法をいくつ知っているかということは大事な事だと思う。金額の問題ではない、肩もんで100円もらうでもいい。なんでもいいけど、その方法を考えると言うことが大事なのだと思う。

いまの世の中は、お金はある一定のところでぐるぐると循環させられてるにすぎないと思う。その循環の流れをつくっている人間が確実にいて、その循環はちょっと考えれば抜け出せるのだということに気づかないといつまでたっても浮き上がることはできないのだと思う。

ある本に、民という字は、目がつぶされていることを表しているということが書いてあった。

自分の目がしっかり開いてるかどうか、たまに確認をすることを怠らないようにしようと思う。

# 足知 #

iphoneやipadをみてて思うのだけど、appleのすごいのは、ほんとはなくてもいいものを、いつのまにかなくては困るものに変えてしまうということなのだな。

正直iphoneなんてなくても、仕事にも遊びのも大きな支障はきたさない、でもあるとより便利でより楽しくなるだけなのだ。どんな大義名分をつけても、なくても困らないものは、なくても困らない、それなのにないと困ると誰も疑わなくなるのだ。

これって、なににでも応用できるテクニックなのだと思う。

このテクニックをちゃんと使える人だけが、それに気づかない人達を魔法にかけて、思い通りに動かすことができるのだろうなと思う。

たまにそういうことを確認して、自分はそういうものにはまかれまいという想いを強くするのです。

思い通りになんてならないぞ。

自分は性格が悪いのだ。

ちなみに、このテクニックは探せば探すほどにあらゆる所に潜んでいる気がしてならない。

くわばらくわばら。

#

なにもそんな難しい事じゃないのだ。

もっと世界はシンプルでいいのだと思う。

でもシンプルな世界をシンプルに受け止めることができるようになるには、もっとしっかりと目を開けないといけないのだと思ってる。


POSTED @ 2012.03.09 | Comment (0) | Trackback (0)

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