Title: 太陽から月へ。

ものの例えなのだけど。

昔はどちらかといえば太陽のを目指していたのだと思う。

でもいまはどちらかといえば月を目指したい。

それはどちらかが正解でどちらかが不正解なのではなく、フェーズの問題なのだろうと思う。ほんとは何かを目指してるということ自体がもう、なにかにとらわれているのもわかる。でも目標を掲げないまま強く歩みを進めるには自分はまだ力不足なのだ。

昔は、まぶしくて、どこまでも照らせるような存在に憧れるし、自分もそうなりたいし、宗教の可能性はそこにあると信じ切っていたけど、今は、まぶしすぎる光は影を生むこともよくわかったし、闇こそを照らせるような光の中に宗教の可能性はあるのだと思える。

社会とか世界の価値観は、いつでも太陽にあって、影をかき消すくらいの光がいつも時代を牽引していけると信じ切っている。

でも、強い光は強い影を生むだけだ。

少しづつその影が隠しきれなくなって飽和し始めたここ数十年をみていると、その影にいち早く反応した新興宗教が脚光を浴びて、それこそブームのように宗教法人が乱発されて、そうやって裾野が広がる中で本質を失った一過性の宗教観が、世論の中にこびりついてしまって、いうなればそこで、社会の中での宗教というもののイメージの価値が下がったのだと思う。

既成仏教に関していえば、正直言えば、くさった住職や、どうしょうもないお寺があるのなんて、ここ数十年に始まったことではないし、何百年も前、それこそ各派の宗祖開祖の人たちが生きていた時代からそんなに変わってない。

ただ、時代の中で様々な宗教が取りだたされて話題に上がると同時に、いままでよりも少し注目が集まったために、既成仏教のアラも目立ち始めたのだろうと思う。

そんな中で、そこに危機感を感じたり、社会での信頼や、価値観を奪還しようとして、既成仏教の中でも敏感な人たちが、あらゆるアプローチから社会の中での仏教の価値観を押し上げようとした。

そこが注目されて取り上げられ、社会の中では、宗教者=社会活動や社会貢献という構図が定着し始めた。社会の中でそういう位置づけができあがってくれば、意識の低い僧侶でも、それをやれば社会に求めてもらえるのだと勘違いして、猫も杓子も社会活動だ、社会貢献だと裾野を広げだす。

その中で、宗教を道徳や美学と混同して、本人すらもそこに酔っぱらったような状態になって、そもそも社会の中における価値が何かなんてことすら考えもせずにステレオタイプに仏教を語り、ファッションのように仏教を扱うような人もいる。

その結果、目的と手段はいつの間にか逆転して、その大きな流れの中から、抜け出せなくなって自分で自分の首を絞めているのじゃないかと思う。裾野が広がるということはそれだけで本質を失う可能性を秘めているのだと思う。

いま注目が集まっているからこそ、仏教は本質を失いかけているのだと思う。

こういうと弊害があるかもしれないが、宗教なんてものは、やみくもに信じるものじゃないし、ましてや社会的に有意義な価値のあるようなものでも、世の中を牽引するようなものでもない。

ただ一人、自分がよりよく生きていくための実践であり、その「よりよく」がなんなのかを教えてくれるものなのだと思う。

そして仏教のいう、平和とか幸せっていうのは、そのただ一人が増えていくことなのだろうと思う。

太陽はいつだって影を生む。

でも影を否定している訳じゃない。

ただ月は、影を影のままでいいといってる気がするんだ。

仏教は太陽じゃない。







POSTED @ 2011.06.08 | Comment (0) | Trackback (0)

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