Title: ツイート備忘。

アミターバが無限だと言うことが、なによりも親鸞が為一人なりけりけりということを裏付けしていて、それは言い換えれば、衆生の数だけの阿弥陀があるのだということであり、つまりはその確信が法然上人の信心も、親鸞の信心も全く異なったところはないと言い切れた所以でもあるのだろうな。

阿弥陀という概念を絵像や偶像化をするということはとても大事だし、その概念を物語の中に落とし込むと言うこともとても大事な事だと思う。でもそれは同時にそれはそうでもしなければ表せないと言うことを指しているわけであり、本質はそこにはないということでもあるのだろうな。

「たらふく」っていう言葉はさ、ただお腹いっぱい食べたということだけを指すわけではなく、「たらふく」食べられるくらいおいしいものだったということも含まれているんだよな。むりむりお腹にぶち込んだものを「たらふく」とはいわないもんな。


POSTED @ 2012.05.14 | Comment (0) | Trackback (0)

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