Title: シンプルな想いの話なのだ。

どこかの遠い国で独裁者が殺されて、その国には自由と民主主義が訪れたそうだ。

昔の自分なら、鼻息荒くして原油産出国への介入の仕方はいつだってえげつないな、裏で糸ひいてる一握りの人間が、大義名分を意図的に作り出して、うまいこと利権の問題を民主主義とかいう思想の問題にすり替えたり、テロだなんだと騒ぎ立てて内政干渉する。こうやって帝国主義は覇権を広げていくんだ、いつだって保守とリベラルの問題は、どこかの頭のいいやつに本質をねじ曲げられているのだ。なんて表面的な知識をつなぎ合わせてわかったようなことを言いたくなっていたのだけど、

結局のところ、ここでどうこう騒いでても本当のところなんて見えないし、わかったようなこといってみることで満たされるものに満足してたって世界はなにも変わらないのだ。

最近はもう理由とか背景とかそんなものはどうでもいい。

一人の人間が殺されることで狂喜乱舞する人が、これだけいるのがこの世界なんだということだけがわかれば十分に自分の今いる世界に還元できるのだ。

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自分を楽しませることのできない人間が、どうして他人を楽しませることができようか。

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はなきんだからという理由で、金曜日には不摂生の極みをしたのだけど、その後ろめたさと胃のもたれ具合から、この土日は食生活や睡眠時間にはものすごく気を遣った。

んで思ったのだけど。

なんか不摂生であったものを意識的に戻していくプロセスとかが結構すきなのだ。

決してストイックなタイプではないし、苦しいのとかきついのとか、こつこつととか、そういうのは完全に不向きなのだけど、思い立って意図的に自分を変えていこうとするプロセスと、そこで実際に変わっていく自分を感じる瞬間に感じる気持ちはなににも代え難いと思ってる。

きっとそれは行きすぎたら破壊衝動になるのかもしれないけど、なにかを作り上げてそこに習慣ができると、それを壊してまた新しい習慣をつくりたくなったりするのも同じようなところから来ているのかもしれないと思う。

良くも悪くも、物理的にも精神的にも、自分の中で何かが変わっていくということを実感するという行為が、脳の中で快楽物質を放出しているのは間違いないようだ。

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ある記事で、戦争経験者の老人がこう言っていた。

サイパンに新婚旅行にいったカップルが旧日本軍の戦車の残骸に腰掛けて、笑顔で写真をとったりしているのをみて、左翼の人間は、この残骸は本当におろかな行為の証だなとかいうかもしれない、右翼の人間は、日本国軍人たちが命をかけて散っていた場所で、戦車にに腰掛けて、笑顔で写真をとるとはどういうことだ!と憤慨するかもしれない。

でも、私の仲間達、旧日本国軍人が守りたかったのは、日本国民の笑顔だったのです。だからきっと仲間達は新婚旅行でサイパンに来ることができて、笑顔で写真がとれるくらいに平和になった日本を嬉しく思っているんじゃないでしょうか。

そしてこの方は、ある時、靖国神社で、夜になると若者が境内で宴会をはじめるということが目に余るようになって、夜間閉鎖を検討されたときに、一人で断固反対したそうだ。そして、若者が笑顔で酒を飲めるなんてすばらしいことじゃないか。きっとここにいる仲間達も笑顔でそれを眺めているよといったそうだ。

なんかこの記事を読んで、穿った見方をしようと思えばいくらでもできるのだろうし、この話も断片的なエピソードなのだろうけど、でも自分は単純だからこういう想いを持ってくれている人がいるということが嬉しいし、だからこそその想いに答えなきゃいけないのだろうと思ってしまう。

正直、今の日本や自分をみていたら、これでいいのだろうかとか思ってしまうことだらけだけど、でもそれでもたまにこういう話を聞いて、自分の中で足下を確認する作業って大事だなと思う。

いいとか悪いとか正解とか不正解とかそういうのじゃなくて、自分がどこに進みたいかこうやってたまに自分で勝手に確認するのだ。

これは右とか左じゃなくて、もっとシンプルな想いの話なのだ。






POSTED @ 2011.10.23 | Comment (0) | Trackback (0)

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