Title: 2013:07:06
ほんとのこといえば、夢と現実の境界線みたいなところで、もてっとしながら、食べて飲んで笑って、ゆるりとしながら、時々ぴりっとしたい時には、そうさせてくれる場所に顔出したりして生きていきたいなと思っている。好きな写真を撮って、好きな本を読んで、今日の1日をどう過ごすのかに想いを巡らせて過ごしたいのだ。
でも現実は、そうも甘くはない。
いま現実で生きなくてどうするんだどあほう、夢はいつでもみれるのだ。とも思うけど、でも本当にいつでも夢はみれるのか?とも思う。
習慣が人をつくるのであれば、自分の習慣よ、どうか夢を見るのを忘れさせてくれるな。
きっと大事なものや、大事なことや、大事な想いは、いつか突然降って湧いてくるものではなくて、間違いなく今の延長線上にあるのだ、そして今の自分の手の中には、その欠片が間違いなくある。
その欠片が時々きらりと夢をみさせるのだ。
今はがらくたのようなその欠片を取りこぼして、ぽろぽろと落としても気づかないような生き方だけはしまい。
それは言うなれば、真っ黒な空に、カメラを向けて目に見えない星を写真におさめられるような感性を日常の中で置き忘れないようにしたいということ。
ごっつあんです。
最近、もしかすると人間は忘れてもいいようなことは忘れないくせに、忘れてはいけないようなものこそ忘れていってしまう生き物なんじゃないかと思うことがあるのだ。
根拠はないのだが、それはたぶん、心に残るこびりつくような思い出は、いいものだけでなく、悪いものも含まれるから、脳は一定以上のゆさぶりをかけてきた思い出は、防衛手段として一纏めにして忘却することにしているんじゃなかろうかという仮説をたてたのだ。
そう考えるとあちらこちらに思い当たる節があるのだ。
ぼけた老人が、自分が子どもだった頃の何気ない日常を鮮明に覚えているのに、我が子の名前も、家族の名前も、もっといえば、きっと心が打ち震えたであろう言葉や、出来事のことなんかちっとも覚えていやしないのだ。
自分を振り返ってもそうだ。
いままで過去にこれだけは忘れまいと思ったことや、感動や感激で打ち震えたことはたくさんあるのに、その時の感情を呼び起こしたりすることなんてできないのだ。それなのにくだらない思い出は簡単に呼び起こせる。
そうだとしたらちょっとこわいなと思ったのだけど、よくよく考えたらその方がいいのかもしれない。
忘れるからまた同じ感動を求めようと意欲的になるのかもしれないし、忘れるからこそ、また足を前に出すきっかけになっているのかもしれない、忘れるからこそ、人間はその一瞬の感動や心揺さぶる経験に打ち震えることができるのかもしれないのだ。
なんて。
最近考えて考えて考えても。
結局の所、その事実というか現実に、これでいいのだ。ではなく、これだからこそいいのだ。と思うことが増えた。
すべてのものがこれだからこそいいのだ。
そう思えばこんな世界でもすこしは愛おしく思える。
POSTED @ 2011.09.24 |
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