Title: たましい。
原発職員と、東電職員の人と話をしてて思ったこと。
人の数だけ背景や状況があるのだ。
目の前の事実は、たくさんの相互関係によって成り立っているのだ。
その様々な状況に想いを巡らせることのできる視野と、心と、許容範囲をもっていたいし、僧侶という仕事はそういう立場なんじゃないかと思う。
自分の主張とか想いとか、願いとか、そういうものが全面にでるのではなく、いかなる主張や想いや願いに対しても、その中にある本質的な自己の問題や、心の置き方に目を向けて、そのベクトルの切っ先が誰かや、なにかを傷つけないように、さきっぽを丸くするような心持ちがなによりも大切なのだと思う。
だから目の前にいる人によって、心を痛める範囲が変わってもいいし、目の前にいる人によって、共感できる範囲が変わったっていいのだ。それはどっちつかずなのではなくて、どっちもまるごとなのだ。
もっとミクロにミクロに、手の届くところ目の届くところ、両手の伸びる範囲を全力で慈しめばそれで十分なんだと思ってる。
信念を持った受動的な立ち位置は、もっとも能動的なんだと信じてる。
まだきてない未来のことに思い煩い、すぎさった過去に思い煩うのではなくと仏陀もぶったぎっているのだ。そしてそこの延長線上にはじめて、どう生き、どう死ぬかということの答えがあって、生と死の価値観をどこに置くべきかということの答えがあるのだと思う。
中道ってはんぱなくでかすぎる視野と、はんぱなく狭すぎる視野を意識した上で、そのちょうど真ん中に立っていなさいってことなのかもしれないと思ったのです。
POSTED @ 2012.04.18 |
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