Title: インド旅 深夜特急編
ニューデリー発ブッダガヤ行きの夜行列車の中。
とにかく寒すぎる車内で備え付けのブランケットをかぶりひたすら窓の外を眺め倒す。
世界の車窓からのテーマソングを口ずさみながら、どこまでも広がる田園風景に、世界は広いぜ、そして自分はなんてちっぽけなんだ。なんてスナフキン気取りで想いを馳せるわけだけど、なにせ20時間近くものってると、景色にもすぐ飽きてやることないので、隣のインド人の観察をしたりするのだけど、それにもすぐ飽きて、どうしょうもなくなってくだらない妄想ばかりをメモに綴る。
【ただひたすらにこんな景色】
その時のメモを順不同に羅列。
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電車の窓からみえるのは、あちらこちらでのぐそをする老若男女。じいちゃんばあちゃん、にいちゃんねえちゃん、子どもに牛に犬。一面の緑の田んぼに転々とおしりを出して座り込んでいるインド人をみて、それが肥料になり大地をつくり、その恵みを口にして、また大地へ戻すのだ、これぞ究極のエコ。
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電車の中にはいろんなインド人がいるのだが、結局のところ信用できそうか、心を開けそうかどうかなんていうのは、ファーストコンタクトの印象であり、おおかた人間が信頼関係をつくるときに表情というのはとても需要なのだ。そこに意識をもっていけるかどうかというのがうまく生きていく為のミソみたいなものなのかもしれない。
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インドの田園風景もはじめは新鮮なのだが、ふと気付けば、千葉県の佐倉のあたりにはここに近い風景はけっこうあったりするのだ。
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旅に出て自分の視野が広がったり、いろんなことを許せるようになったり、自分の駄目っぷりを知ったりすることができて、自分の世界すこし変わったかもなんていう実感を感じたとしても、そのメリットを人に伝えたり説明することなんてできないのだ。
自分の世界が変わる感覚は変わったことがある人にしか共有できない体感の世界なのかも。
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インドにきて、スティーブマッカリーの撮った写真のすごさをふつふつと感じた。そう、この目なのだよ。
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途中停車している駅で、おそらくサドゥ(修行僧)と目があったら、そのサドゥが満面の笑みで手に持った杖らしきものをこっちに振り上げてくれた。なんかそんなたわいもない一瞬のやりとりで、インドのいままでの嫌な想いが吹き飛ぶような気がした。
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自分の分限はどこまでなのか。日本にいると自分の分限がどこまでなのかわからなくなる。
でもインドいると自分の分限がよくみえるような気がする。インドだけじゃない、チベットでも感じたのだけど、どこまでもでかい空とか大地とかそういうもののコントラストにさらされると、自分の分限がどこまでで、どこから先にいけば自分の力の及ばないところか、その線引きがはっきりされているような気がするのだ。
人間は自分の分限を知って、自分の足りないものを自覚することで、そこではじめて足りないものを何かで補うことができるのだと思う。
日本では自分の分限は見えにくい。だから足りないものにも気づきにくい。自分の足りないものに気づけないということは、いつまでたってもそこを補完できないということなのだ。
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喜ぶことも、悲しむことも、笑うことも、自分もインド人も同じなのだ。何千キロ離れて生きていても、どんなに生活や風習が違うとしても同じなのだ。そいつが何人かなんていうカテゴライズは時に便利で、代名詞として大きな意味を持つのだけど、本当の所、つかみどころのない霞みたいなものなんだ。人種や国家間の抱える問題のほとんどは、そのぼんやりとした霞をつかむような話なのだ。
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インドにはレンガの家が多い。どんな家かって言えば、3匹の子豚の絵本にでてくるレンガのうちみたいなの。
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途中の停車駅でお祭りの準備をしている人たちがいた。なんかその人たちの顔を見てて、娯楽や生き方の選択肢の多さとお祭りの価値観は反比例しているのだと思った。
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インドでもしビジネスをするとしたら、市場の創造という言葉を頭の中にいれて動いたら案外道が開けるのではないだろうかとか浅はかにも思ったりした。今あるもののクオリティをあげて売るよりも、今はないけど、それがあれば少し生活が楽になるとか、新しい習慣に結びつくようなものを導入することに主眼を置いてなにを売るか考え得るのは面白い気がする。
日本で同じことをしようとして全国民が1円を出しても1億2千万くらいにしかならないけど、ここなら8億なのだ。それにこの国にはまだまだ不便があふれているし、それは言い換えればそのままビジネスチャンスなのだろうと思ったのだ。それとデリーにはまだまだ土地が余ってる、日本人企業向けの貸しテナントや賃貸をつくれば、結構需要があるのではないかと思う。
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いろんな国にいったけど、結局国境なんて線は見えたことはないのだ。
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それがいいのか悪いのかとか、そこに戻るべきだとかナンセンスなことを言うつもりはないけど、でも自然と共生している時に育まれる感性みたいなものは、どんなに国が発展しても身体のどこかに置いておきたい感覚だと思った。
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そんなこんなで、気づけば自分の席にも、見も知らずのインド人が入れ替わり立ち替わり座ってきて、ああでもないこうでもないと、話をしては去っていく。
【手前の席は自分の席なのだがおかまいなしにだれでも座ってくるのだ】
そんな中ずっと隣の席にいたインド人(自称31才、決して同い年には見えないのだが・・・こちらをなめるようにみてくるのが特徴)の彼が降りがけに車内販売のスナックを買ってくれた。
若干怪しんでいたのだけど、同い年だということと、スナックを買ってくれたということで打ち解けて、しばし談笑し、固い握手を交わした。
【お米をフライしてあるものに、野菜とスパイスをお好みでまぜたスナック、ぴりっとしているけどなかなかうまい 】
そして長い長い列車の旅は終わりいよいよガヤ駅に到着したのだ。
いざ聖地へ。
POSTED @ 2011.08.22 |
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