Title: 葬儀の話。
こないだ行った葬儀のこと。
先日、癌を宣告されて1年間の闘病生活をして亡くなったお檀家の葬儀に行ってきた。骨上げまでの間に奥さんが横に来てぽつりぽつりと闘病のことを話してくれた。
そしたらふと奥さんが、
「いやね、実は私たち夫婦は、今だから言えますけどね、いままで特に仲がいい夫婦ではなかったんですよ」と言った。
いつも一緒にお参りや法話にきてたイメージがあるのでびっくりしたのだけど、続けて奥さんは
「あの人は家ではいつも怒っていて、むすっと言葉も少なくて、昭和の人というか、みんな機嫌をそこねないように戦々恐々としてたんです、いつもこの人はなんでこんなに怒っているんだろうかと思って暮らしてたんです」
「でもね」
「癌になって、この1年、本当に人が変わったように、よくしゃべるようになって、いままで冗談の一つも言ったことない人が、隙あらばなにかおもしろいことを言おうとしてるんですよ」
「だからつい、あなた癌になってずいぶん明るくなって、いい人になったわねっていっちゃったんです」
「そしたらあの人は、たしかにそうかもねと言ってました」
「そして死ぬまでの1年の間に一生分、ありがとうという言葉を言ってもらえました」
「癌の中でも痛いと言われている癌なのに、文句も言わずに最後までありがとうで死んでいって、本当にこの1年、変な話ですが夫が癌になって、夫との最後をこうやって過ごすことができてよかったなぁと思ってるんです」
「ただ病人の手本のような逝き方をされてしまって、私も娘も困ってるんです」
といって笑っていた。
色々と考えさせられた。色々な死に方がある中で、どんな死に方をするか選べないし、どの死がよい死だとか、悪い死だとかそんなのはないと思うし、死にいいもわるいも評価するのは人間のエゴだというのは頭ではわかってる。
でもこの奥さんや家族にとって、そして亡くなったご主人にとって、この死はとてもいい死だったのかもしれないと思った。
そしてこの葬儀ではもう一つ考えさせられたことがある。
出棺に際して、このご主人のお母さん、つまりはもうおばあちゃんなのだけど、おばあちゃんはまだ90過ぎて元気なのだけど、そのおばあちゃんが棺桶にすがって、自分が先に逝くべきなのに、ごめんねごめんねとおいおい泣いていたのだ。
こういう場面に出くわすことはよくあるのだけど、そしたら娘さん、おばあちゃんの孫が自分の所に来て、
「人の死ぬ順番は思い通りにいかないものだから、順番に次は自分が死ぬだなんていってるおばあちゃんに、順番なんか気にしないでいつまでも長生きするように、おばあちゃんがそう思えるような法話をしてください」
といって頭をさげたのだ。
おばあちゃんは火葬場には行かないといって帰ってしまい、そのあとに話す時間がなかったので、49日の納骨の時にその話をしますと約束をした。
死ぬ順番。こればっかりはこの世の縁尽きた順番だから、後も先もないのだ。頭ではみんなわかっているのだ。でもそれを受け入れられないのが人間なんだな。90過ぎたおばあさんが、嗚咽するほどおいおい泣いている姿をみて、自分になにが言えるかわからないけど、なにかを伝えねばならないと思ったのだ。
そんな1日
帰りの車の中で、その日初めての葬儀デビューだった後輩(70才)は、これが葬儀なんですね、本当にいい経験をしました、またこれからもよろしくおねがいしますと自分に頭を下げた。
なんか、その最後のとどめで、自分の中にあったものが堰を切ったように、こみ上げてきて、なんか悶々とした想いが止まらなくなった。
いったい僧侶ってなんなんだろうな。
たいした力もないのに、人の最後に、人の人生に土足ではいっていくような感じ。そこに対する後ろめたさと、70を過ぎた老人が、自分の後輩になって自分に教えを請い頭をさげる、なんかそういうすべてになんともいえない気持ちになって、それがなんの悶々なんかは未だにわかんないけど、家に帰ってからも悶々とした一夜を過ごしたのだ。
そしたらインフルエンザになったのだ。
そんなこないだの葬儀の話
落ちもないうえに、どうってことのない話だが、忘れたくないので書き残しておく。
POSTED @ 2012.02.18 |
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