Title: あたまの整理。

ratoonをはじめて半年たって気づかされたこと。頭の整理。

子どもにとって「自由」というものはとても難易度の高いものであるということ、
その難易度をあげてしまっているのが「評価」であるということ。

ratoonにきた子ども達をみていて、さあ自由に好きなことをしていいよ、というと、
大抵の子は、自分の知っているもの、得意なものを手に取って挑戦をする。

それを突き詰めていえば、はじめて挑戦してもそこそこできそうなもの、
過去にいい評価を受けたことのあるものという分類ができる。

それでもはじめてみるものや、見たことがないものへの好奇心は隠しきれず、
そこから湧いてくる挑戦したい想いと同時に、
うまくできないこと、評価されないかもしれないことへの怖さみたいなものを
意識的にも、無意識的にも天秤にかけているように見える。

子どもはいつだって自由かというとそんなことはない、
子どもほど周りからの評価をきにして、
自分の分限の幅を空気の中から読み取ろうとしている、
そしてなによりも周りからの期待に一生懸命答えようとしている。

その天秤のバランスをとりながら、少しづつ好奇心の扉を開いているように見える。

そのペースは大人の思うよりもとてもゆっくりで、
その扉を大人が無理にこじ開けないようにしたい、
ゆっくりと扉を押していくペースを考えなければならない。

ratoonにきた子がはじめに口にする、
これ自分でやっていいの?うまくできないかもしれないよ?子どもがつかっていいの?という言葉。
その言葉はそのまま子どもたちの生活や置かれている状況の写し鏡なんだろうと思う。

どんなこともトライアンドエラーを繰り返して、物事は深度を深めていくことができる。
その中で想像を膨らませ、創造を楽しむことができる。

失敗してもいいんだよと大人はいうが、
子どもが安心して失敗できる環境をどれだけ整えられているのだろうか、
無意識的にも成功ばかりを評価しているのではないだろうか、
大人が率先して失敗し、トライアンドエラーをする姿勢をみせていられるだろうか。

ratoonを始めるときに、子どもたちが自由に好きなことをできる場所にしたい、
そこで想像や創造にあふれる環境をつくりたいと思った。

しかしはじめてみて、まずでばなで気づかされたのは、
いかにその環境を自分たちが奪っていたかということ。

子どもの行動は本当に写し鏡だと思う。
良くも悪くも、まったくもって写し鏡だ。

子どものすることを、子どものせいにするのではなく、
その原因を自分の中にみつけられるかどうかということが、
この仕事の面白いところで、醍醐味なんだと思う。

まずは一つづつ。

安心してトライアンドエラーすることで、やっていいことの分限をひろげ、
その経験をつながりの中で共有できる場所づくりをしていきたい。

環境をつくるということはとても難しい。

難しいというと十把一絡げだけど、どんな場面でも「いい環境」というものに定義があった時に、そこには物質的な割合よりも、そこを作る目に見えない要素、言葉や姿勢、想いや願いのベクトルの占める割合が大きくなっていなければいけないのだということを実践をもって感じる今日この頃です。

POSTED @ 2016.10.24 | Comment (0) | Trackback (0)

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