Title: 追記。

質の高いコミュニティについて、布団の中にはいっていたら言いたいことが少しまとまってきた。

例えばだけど、お朝事(毎朝あがる朝のお勤め)の時に毎日できたてのパンが境内で焼き上がるという計画を立てるとする。それは別にお朝事に出た人が食べれるとかどうこうとかいうわけでなく、ただ単純にパンだけで勝負できるくらいのものを提供して、パンから派生してコミュニティを作っていこうという狙いがあるとする。例えばだけどね。

その時に、じゃあそれを実行に移して、客単価をいくらにして、毎朝いくつ売れば、月にどのくらいで元が取れるのだろうか、土地の賃借料は法人から借りる形にする場合は、別法人を立ち上げなければならない、無論その会社を維持するだけでもランニングコストはかかる。

また人件費や経費、工事費用だけでなく、それを役員会で承認させる為には、それなりのプレゼンが必要になるし、お寺から費用を動かす場合であればそれなりの手続きが必要になるし、どういうリスクや問題点があるのかも考えなければならない。細かいこと言えば、お寺にいなきゃわからない部分でも考えねばならないことはたくさんある。通夜葬儀がかぶってる場合でも問題ない場所が確保できるかとかと

ざっとだけど、そういう諸々の条件をクリアして、何ヶ月で機動に乗せて、その効果はどれくらいあるのか、リスクは許容範囲に収まるのか、収支はどうなるのか、ということをしっかりとビジョンとしてして立てて、中期長期的にその目標をクリアしていく。

その責任をなによりも、寺の人間が自分の肩に背負うということが大事だということが言いたいのだ。

いままでお寺発信で行われるイベントや、社会への開かれ方というのは、ノーリスクに近く高リターンを狙っているものが多いような気がする。たぶん、お寺という付加価値をつけていれば、それなりに評価されるからそこに甘んじてしまうのではないだろうか。

それとさっき考えて思ったのだけど、たぶん自分はお寺という媒体を社会の為とか、開かれた視点でというのが第一なのではなくて、今後永代に渡って自分の寺が生き残れるための要因や種を自分の代にいかに蒔けるかということが最重要であり、なによりも自防の繁栄が一番だと考えている節がある。

でも、それが結果として誰かの為になるのだという大義名分のもとに動くからこそ、多少のリスクと勝負をしなければいけないのだろうと思うのかもしれない。

リスクなき繁栄はない。ただリスクは自分の努力次第で限りなく0にできるということを学ぶのが今だということがいいたかったのだ。

すっきり。







POSTED @ 2012.02.16 | Comment (0) | Trackback (0)

コメントを書く。