Title: ギルド。

実は、というほどのことでもないのだけど。スープがすごい好きなのだ。昔から。

特にコーンスープ。

たぶん理由なんて考える必要はないのだろうけど。

最近子どもたちと絵本を読んでいると、絵本の中にはよくスープがでてくる。この時期に選ぶ絵本にはよくでてくる湯気の立ち昇る温かいスープをみるたびにああ・・・おいしそう・・・と思うのだ。

うちは昔から絵本がたくさんあったし、本ばかり読んでいるような子どもだったので、知らず知らずに絵本の中から受けた影響というのは大きいのかもしれないなんてふと思ったのです。

きっとスープの味が好きだというよりは、寒い日にのむスープというシチュエーションが好きなのだ。

なんか子どもたちをよくよく観察したり、自分の子どもとの関わり方をよくみるに、自分の好きなものや安心するものが子どもの時からの延長であるのかもしれないということを思わされる今日この頃。

いつか時間ができたときに読もうと思っていた、秋葉原通り魔事件の関係の本や手記、雑誌などのインタビューを一気に読みあさる。寝ても覚めても加藤智大のここ2,3日。

さっきのスープの話じゃないけど、自分をつくる要素や可能性は、自分の手を越えたところにたくさんあるのだ、それはいい方にも悪い方にも作用する種みたいなものなのだということを改めて再認識する。

強く感じたのは、生きているということは、心臓が動いていることだけを指すわけではなくて、人は生きながらに死ぬことも、死してなお生きることもある。そして孤独や寂しさや、満たされない思いというので人は生きながらに死ぬことができるのだ。

そして現代には、孤独や寂しさや、満たされない思いを簡単に味わうことだけの背景と要素があまりにも多すぎる。無意識に生きていれば誰でも簡単に落とし穴に落ちる、基本設定で人を孤独に追い込むシステムが当たり前のようにまかり通っているのだ。

「人間」という漢字を初めて作った人は本当にすごいな。

あたりまえのようだけど、人は人の間にいるということが大事なのだと思う。人の間にいるということは、煩わしいことも、めんどくさいことも全部含めて、よりかかられることであり、よりかかることなんだろうと思う。現代人の苦手なのは、よりかかられることじゃなくて、いつだってよりかかることなのだ。

そんなことを思いながら今年を振り返るに、この半年は宗派をこえて若手僧侶があつまる会の企画をしてきたのだけど、今一度僧侶とはなにか?ということを自分自身に問いかけるいい機会だった。

なんか。

今回この半年で思ったのは、やはり仏教は人のいるところにあるものなのだ。人のいるところに苦しみや悲しみがあって、僧侶はその人の顔の見えるところにいるべきなのだと思う。

あたりまえで簡単なようだけど。

人の顔を想定しないで、ああでもない、こうでもない、顔も想像できないところで議論を繰り広げると言うことが当たり前のように横行しているのだ。

脳死の議論1つとってもそうなのだ。

自分の大切な人がなるのか、他人がなるのか、自分の家族に提供を待つ人がいるのかいないのか。そんな違いでそこにある答えは様々なのだ。むしろ様々であることが既存設定なのだ。

その様々にある人間模様の一つ一つの顔の見えるところに仏教はあって、僧侶がいるべきなのだと思う。人の数だけ苦しみはあるし、その苦しみの数だけ僧侶のあり方があっていいのだと思う。

なんせ教えは八万四千もあるのだ。

すごく浄土っぽい考え方かもしれないけど、自分は真宗の僧侶なので。

なんか今回の会議を終えた帰り道、ふと、救うっていうのは掬うって言い換えてもいいのかもしれないと思った。

掬う為には、そっと両手を差し出せる距離にいなきゃ駄目なんだろうと思う。

願わくば、自分は人の顔の見えないところでなにかを動かすような僧侶になるのではなく、自分の手で直接誰かの顔を見て何かを掬えるような僧侶になりたいと思う。

自分の中にあるおぼろげなものが形になって、自然に1つの方向に押し出されて、結果として自分ができあがってくるのだ。

だから目指すべき自分なんてない。

夜と朝をなぞるだけのまともな日常。

まえにまえに。





POSTED @ 2011.12.19 | Comment (0) | Trackback (0)

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