Title: すにーか。

人間というのはつくづく、不確かで脆く、理解している以上に、様々な不可抗力の影響を受けていて。

それは夜風が気持ちいいことでもあるし、夕立が降ることかも知れないし、夕方にどこかの家から夕飯の匂いが漂ってくることかも知れないし、月がきれいだなんてことでもある。

自分というものは、そういう刻々と変わる一瞬の変化をぐんぐんと吸収して、自分の意識の及ばないようなレベルで心に作用する。

そのレベルでの変化はつねに身体の中を渦巻いていて、自分で想う、自分で決める、自分で歩く、自分で生きるなんてことは、あくまで刹那的な経過にしか過ぎない。

だからこそ自分の身をおく環境に心を巡らせることは大事なのかも知れないし、戒というのは、その場所に身をおくことで、心におこる作用をある程度制限するということなのかも知れない。

その粒子のような縁とよばれる類のものがつねに自分を取り巻いていて、それがまとわりついてつねに変化して、有象無象の混沌としたような作用の中で、自分はつねに変わり続けていて、つねに影響を受け続けていて、流れ流れて、同じ瞬間なんてものは一瞬もない。

それを無常というのであれば、やはり実体するすべてのものは如しにすぎなくて、空であることが紛れもない実相。

だからなんだってなはなしで。

だから拠り所なんてものにたいさ意味はなくて、変化して然りなことが人間の本来のどこにも負荷のかからない自然なことなのだ。

どう生きるかということを考えたときに。どうありたいかということは状態や実体によってのみ理解することができるのだけど、でも本来の自分がどうありたいかという問題の答えというのは、本来状態や実体の中に見つけることができないはずだ。

しかしながら、答えのないところに答えを求め続けようとすることを課せられて、そこを回り続けることを強要され、そこで生まれる苦しみを、対処療法で回避していくことしかできないという、それでいてそこに大きな疑問をもつことすらできないという縁を生まれながらに備えているのが人間で、その故は寿命というものをもって動物として生まれたということで、種としての共存共栄をすることが、保存の第一であるという前提であれ、そのぬぐい去ることができない事実によってもたらされる。

だからこそ、意識的に、そして無意識的にも、その不確かで朧気な存在そのものが根底から揺さぶりをかけてくることがあって、そのゆさぶりはなにかその人間という存在の枠組みを超えた「なにかに」拠り所を生み出そうとする働きであり、それはつまりは祈りや願いを生みだす。

宗教というのは人間の本質が必然的にうみだしたものである。

どうして人がすがるのか、それは人間そのものの存在がある故で、だからこそ信仰において、人が救われるということにおいて、宗教においてその方法がなにであるのか、その解決策がなにであるかということは最も重要視されねばならない。

それが宗教としての柱であり、宗教の意義でもある。



POSTED @ 2014.10.27 | Comment (0) | Trackback (0)

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