Title: べいべ。
金環日食自体もとてもドキドキしたのだけど、自分の中では、みんなが同じ時間に同じように空を見上げてるかと思うとその事実のほうによっぽどドキドキした。
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高速道路脇の看板に、Don't Worry Be Happyと書いてあるのを横目で見ながら。
Happyがなんなのかわかりもしないのに、心配すんなとかいうのって無責任だぜべいべーと思いながらも、それがわかってて、何の根拠も確証もないくせに、眼をキラキラさせながら面と向かってこの言葉をはき出せる人だけにしか変えられないものがあるのだろうなと思う。
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結局の所、他者と自分を、もっといえば自分と自分以外を隔ててるものは自我でしかなくて、自我によってすべてをカテゴリー分けしているわけで、世界の広さも狭さも、それはそのまま自分の狭さであり広さである。
それを突き詰めていくと、生きてることも死んでることも結局の所、それを隔てているものは自分の自我なのだと思う。
自分にとって、生きてるのに死んでるのと変わらないような人もたくさんいるし、死んでるのに生きてる人と変わらないような人もいる。物理的な隔たりなんて、畳縁くらいのもんなんだと思う。
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例えば、できたばかりの誰もすんでいない、新築のマンションのベランダはなんてことないただのベランダなのだけど、例えばそこに人が住み始めて、そのベランダに、色とりどりの布団や洗濯物が干されて、それを眺めると言うことは、それはきっとアートとして成り立つのではないかと思った。
なんかそれが、芸術か芸術じゃないかの差なんてそんなもので。
もっといえば、もしかするとそれは人間の共通意識に対する、深度の問題で、断片的なものにどれだけの深度を込められるかと言うことなのかもしれない。
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最近基本というものの大切さを痛感する。
ざっくりと視野を広げたいとか、人間の幅を広げたいとか、人間として大きくなりたいとか思った時にも同様で、基礎の上にしか+αは乗っからないのだと思う。
人間的な基本って、挨拶とか、感謝とか、思いやりとか、そういうことをただの美談として語るだけでなく、自分の中で実践されているかどうかなのだろうと思う。
それができなくて、人間がわかるもんかい。
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思春期真っ盛りの人の言葉を聞きながら、今の自分と比較をする。
自分がその人と同じくらいの年に見えていた世界なんてちっぽけなもんで、側面的で、世界の広さも知らなかったし、自分の狭さもしらなかった。
でもだからこそ学べることがたくさんあったのだ。
そんなことを考えながら、やはり年をとっていくという過程の中で、その年には、その年にしか学べないことがあるし、その年にしか感じられないことがあって、それを少しづつ自分の上に積み重ねていくようなものが人生で、それが結局の所、幅にも功みたいなものにもなっていくのだろうな。
人生はプロセスの連続で、最終的にもプロセスの途中で終わってしまうのだろうと思う。
ゴールも結果もない。
だからこそおもしろいのだ。
年をとるのはしぼんでいくのでも枯れていくのでもない、いままで見えなかったものがどんどんみえるようになることだいべいべー。
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旅をしていて、夜眠れなくて、窓もない狭い部屋で真っ暗な中で、何をするでもなく座って夜が明けるのを待っている時がある。外の音に耳を澄ませながら、ただ何時間も、ごろごろしたり、座ったりしながら部屋の中で過ごす。
そういう時間を過ごしていると、真っ暗で自分の身体も見えないから、ふと自分の境界と、世界の境界が曖昧になるような感覚に陥るときがある。
昨日夜眠れなくて、真っ暗なリビングで座ってたら、ふとそんな感覚を思い出した。
境界なんてそんなもんで、目に見えるものだけに絶対的な価値観があるかというとそうじゃない、もしかすると本当に大事な事は目をつぶらないと見えないのかもしれないとすら思う。
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自分は、いきたここちがするときに幸せを感じるのだ。
そう考えるといろんなことにつじつまが合うのだ。
旅にでたくなるのもなにもかも。
だからもしかすると自分にとっての幸せは決して満たされることではないのかもしれない。
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ずばぬけられる人は、何かを非情にも切り捨てられる勇気と覚悟を兼ね備えている人なのだとか言い放った後に、そう思うこと自体がもう自分のサイズなのだと知る。
その人達はなにかを切り捨ててる感覚も、勇気を持って足を出してる感覚も、覚悟すらない場合もあるのだ。
POSTED @ 2012.05.30 |
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