Title: しかみ像。

実は、すこし前に資金運用に失敗して多額の損失をだした。

書こうか迷ったのだけど、その一件のできごとの中で感じたことや、わかったことはとても大切なことであると同時に、この教訓を忘れないために書き残しておこうと思う。

昨年くらいから、仕事に関しても、プライベートにおいても、色々なことがうまく回っていて、大きな仕事を任されてもしっかりと結果も数字もだせていたし、なによりも人前で話すことや、人と関わるという仕事の中で、おもしろいようにいい結果がでて、それにともなって自信もついてきたし、自分の成長に自分ですごく納得をしていた。

でもそれが間違いなく過信だったのだと思うし、自分の力で大概のことはなんとかできるとか思って天狗になっていたのだと思う。

自分のやりたいことや、思い描いてるものが大きくなってきた時に、心の中でもっともっとという欲が先走って、足下おろそかになっていたのだと思う。

身の丈に合わない金額を運用して、為替が一銭が動く度に、一喜一憂している自分を客観的にみて思ったのだけど、うかれてる真っ最中にいる時は、すべてが追い風で、どんな風でも順風満帆に感じるのだけど、ひとたび状況が変わるとすべてが向かい風になって、どんなに帆を張っても面白いように風は船を避けて吹くのだということをすごく実感した。

まさにこの世は無常の世で、一寸先は闇なのだと言うことが、どういうこのとなのか頭ではなくお腹の底から感じたような気がする。


それを実感する中で感じたのだけど。

なにかに迷っているときや、人生において大きな決断をするときに、様々な情報や、過去の例や、色々な人の経験を元に、自分なりの予測をして、ベストだと思う答えを選択して進んでいくのだけど、それは結局の所、いい結果に結びついていると信じたい自分の背中をおすための口実がほしいだけなのだ。

冷静に情報や状況を分析しているように思えても、自分の心に追い風が吹いているか、向かい風が吹いているか、それによって、最後に背中を押してくれる材料を探しているにすぎないのだ。

追い風の時は足をだす勇気になる情報を、向かい風の時は、あきらめる勇気になる情報を、無意識に選択しているにすぎない。

この世の中で情報はとても大切だ、情報に勝るものはないと言っても過言ではないくらい。情報をもっているかもっていないかということで人生に大きな影響を与える可能性すらある。でも情報自体もいつも動いていて、24時間刻々と変わる情報を捕まえ続けるということはとても難しいし、とても消耗する。

そして情報は、仕事でも恋愛でもなんでもいいけど、結果の善し悪しの確立を左右するものではあるが、人生が確立で成り立つのであれば、大抵の事は思い通りに進むはずだし、運命は手中におさめられる。でも現実をみれば、確立の及ぼす影響なんてものは人生においてたかが知れていると思っていた方がいいのだと思う。

その確立以外の何かをなんて呼ぶかは自由だけど、それは、運とか、運命とか、本願とか呼ばれている類のものであることは間違いないと思う。今回の事で、そういうものの影響を頭じゃなくて身体で受け止める体験、経験というのは、なんであれ大事な事だなと思った。

それと、含み損が大きくなってきた時に、それを取り返そうとしている時の自分の心の状況は本当に、ひどいもので修羅の心というか、普段平気な顔で、心穏やかになんていって、自分もそんな気になって、充実してすごしていたつもりなのに、一銭が動く度に、心がざわついて、損失が出る度に、誰かを妬んだり、怒ったりしたくなったり、逆に利益がでているときは、もっもっともうちょいいけるなどと思って欲望丸出しで、自分で自分の嫌なところが包み隠せないくらいに凡夫丸出しで、そういう自分に目を覆いたくなりつつも、そこにどっぷりと足を突っ込んでいるときは、そういう自分ですら肯定するための材料を探そうとするから始末が悪い。

なんかある程度の損失をだして、これはもういよいよだめだと思って損切りをして、損失が確定して、もう取り返す事への気持ちも折れてた時に、しばらくどうしょうもない気持ちと、損失がなければ何ができたのだろうか、なんとか取り返す方法はないかとか、そんなことばかり考えていて、その間に法事や葬儀をして、色々な話をしなければいけない時にも、話をしていて、自分の心の中がこんな状況なのに、人になにかを説いてる自分のギャップに、またどうしょうもなく落ち込んだりもしたのだけど。

でも何日か悶々として、全ての取引を終わらせて、もうチャートを気にしなくていいのだと思ったら、すごく心が軽くなったのと、当たり前にいままであったものの大切さとか、すでに手の中にあるものがすごくありがたいことなのだと再認識した気がする。

布施という言葉があるけど、手放してみると楽になるということが布施ということなんだろうと思う。お金をあげて損だとか、ものをあげて見返りを求めるとかそういうことではなく、手を離すことで楽になるのは間違いなく自分自身であるのだと感じた。

お金やものなど、財産はなければ困るし、あった方がいいのだけど、でもそれを手放すとか、不相応の中で満足することで、心がかき乱されないということがあって、それをまさに布施行というのだと思う。

為替のチャートをみていて、数字の上下に極楽の心にも地獄の心にもなり、最後は手放すことでそのどちらかも解放されたような気持ちになって、そんで今になっては今ここでこういう経験をして、もう二度と同じ轍はふまないし、自分にとってお金がどういうものであるかも嫌と言うほどわかったし、いくら悟ったような顔してても、数秒後には簡単に心がぶらんぶらんする自分にも出会えて本当によかったと思う。

むしろそういう自分に出会えないと浄土教は意義を失ってしまうのかもしれない。

為替もまた善知識だとすら思う。

そしてチャートの中にも聖道浄土のかわりめがあった。

恥ずかしながらお金にまつわることで、欲望を丸出しにして痛い目にあったという今回のことは1ミリも無駄にしない。

徳川家康は、武田信玄率いる騎馬隊に惨敗した時、敗走後の自分の情けない姿の肖像画を絵師に描かせ生涯教訓にしたという。そういう意味でも今回の教訓は忘れないように書き記しておいて、たまに思い出して今後の糧にしようと思う。

なむさん。

幸いにも家族や仕事で路頭に迷うような金額ではないのでご心配なく。








POSTED @ 2012.09.21 | Comment (0) | Trackback (0)

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