ある人に言われたのだけど。
動物が一生のうちに打つ鼓動の数って決まってるんだって、そりゃ心臓だってたくさん鼓動すれば消耗するわけだし、だいたい人間だと20~23億回くらいで機能的に限界だそうだ。
その話に根拠があるかどうかはわかんないけど、自分の脈をとりながら、この一回一回の脈は死へのカウントダウンなのだと思った。生きてることはそれだけで消耗してて、日々は着実に死ぬことに向かっているんだな。生まれたばかりの子どもも、お腹の中にいる子どもも、友達も、自分も、親も、みんな毎日力強く脈打って、死へのカウントダウンをしているんだ。
それは紛れもない事実で、当たり前なのだけど、この脈が静かに止まるときには死ねばいいのだと思う。
なんかそんな話をきいて、今度から自分を見失いそうになったら、こうやって脈を確認して、生きてることと死にゆくことを確認してみようと思った。生きてるものはみんな日々消耗して衰えて、目に見える部分の抵抗なんて、無情にもなにごともないかのように無視して、死にゆくのだ。
そこから目を背けないでいることが、すなわち今を強烈に刻みつけるということなのだ。
なんかそう思えば、生も死も人間として大前提のルールである以上は、それ否定してしまうというのは横暴なことでナンセンスなことなのだと思う。
肉体に限界がきて機能を停止する。それまでの長い時間を各々が思い思いに過ごすことを人生を呼ぶわけで、その時間の過ごし方に本当は価値も意味もないかもしれない。
そこに意味や価値を見いだすのは結局は、究極の自己肯定であり、負の昇華なのだと思う。
あえて尖ったいい方をするのなら、ぐだぐだいわずにただ淡々と死にゆけばいいのだ。きっとそこに腹を据えることこそが、生を強烈に刻みつけることなのだ。
どうせ淡々と死にゆくのであれば、自分がこうありたいとか、あれがほしいとか、これがほしいとか、手の内にないものに右往左往するよりも、今宵の月がきれいだとか、風がきもちいいとか、いい日差しだとかいいながら、あたりまえに何もしなくても手の内にあるものに楽しみを見つけられる方が安上がりで長続きできるしお得な過ごし方だと思う。
んで、もしかしたら、死にたくなったり、にっちもさっちもいかなくなったり、もう地球が爆発すればいいのにとか、うんこみたいな奴はみんなくたばればいいのにとか思うときっていうのは、きっと自分が生きてることとか死にゆくことを忘れているときなのかもしれない。
我を忘れるってきっとそういうことなんだきっと。