Title: 一輪の。
比較的穏やかな時期。
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有象無象いろいろな悩みや、解決しなければいけないことや、片づけなければならないものが重なって、無意識にも脳のメモリーがバックグラウンドで動いている時に忘れてしまう大事なこと、例えばそれは季節の変化や、それに伴う心や体の変化、腰を据える感覚とか、楽しむ姿勢とか、丁寧な生活とか。
そういう、目には見えないものを捕まえる目が閉じてしまうような時に、焦燥のようなものを感じるし、そういう焦りがまたいろいろな歯車を狂わせる。
そういう時、いままでの自分は環境を変えようとしたり、習慣に変化を加えたりしながら、やたらと楔をうつことに執着していたように思う。
でも最近、そういう時にも感覚的なアンテナはしっかりと立っていて、なにかに追われながらも意識とは別のところで、身体のゆがみを自然に補正するかのように、内側から働きかけていて、そのちゃんと働きは自分の中に沈殿している実感があって、
例えるなら、なにかに追われていると、心の中のコップのようなものが、蓋をされてしまうような気がして、その蓋を取り除かねばならないと焦っていたのだけど、でもよくよくみたら、蓋なんかなくて、コップのほうを向いてなくても、ちゃんとこの瞬間にも水は注いできていると思えるようになったということ。
この変化はとても大きな安定につながる。
その安心が物理的に負荷の少ない時の心の柔らかさを、負荷がかかった状態でも保てる一つの要因になる。
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そしてやっぱりロックはやさしい。
臭いものに蓋をしない姿勢を教えてくれる。
さらけだす姿勢は、さらけだされた人を包み込む姿勢だ。
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昔、船乗りは帰る場所があるからこそどこまでも遠くにいくことができるという言葉を聞いたことがある。
その言葉の意味が実感として、40を手前に少しお腹に落ちてきた気がする。帰る場所っていうのはどんなものでもいい、それが物理的な場所や、つながりの場合もあるし、抽象的な目的や理由でもいい。
旅にでようと思うとき、やはりゴールはここではないどこかではなくて、あくまでゴールは最初に一歩を踏み出したこの場所であるのだと思う。
いつだって旅人はスタートがゴールなんだ。
そう思えた時に、また一人旅にでたくなった。
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泣き止まない子がいたり、へそを曲げる子がいたり、大人には理解できない理由で取り乱す子がいる時、
その子が求めているのは、慰めじゃなくて、受け止めてほしいだけなのだ。
そのまんまの肯定なんだと思う。
そのまんまを受け止める心がどれだけの人を救えるか。
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戦える体になりたい。
それは物理的に。
いまの自分は戦える体じゃない。
戦にでたらすぐにへばって、取り囲まれて斬られる。
だからまず戦える体になりたいと思った。
なにと戦うかとか、敵はどこにいるのかとか、
そんなことはわかんないけど。
今わかっているのは、いま自分は戦える体をしていないということだ。
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例えばはじめてクロールを覚えて、25メートルを泳ぎ切れたときのクロールと、
海で泳ぎ始めて、遠泳をしたあとのクロールは、同じクロールでも別物で。
力の入れ方も息継ぎの仕方も、心の持ちようも違う。
自分のクロールもだいぶ変わったのだと思う。
でもクロールはクロールなんだ。
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ぐるっと回って同じところに立ってるような気がしても、それは同じところではなくて。
それは物理的な問題ではなく、そこに立つ自分の感覚と視点の問題。
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"らしさ"みたいなものは単色をではなくグラデーション。
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波風立てづに、長生きしたいと思うようになったけど、でも何かを守るために刺し違える覚悟は忘れまい。
POSTED @ 2017.09.21 |
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