Title: 質の高いコミュニティについて。

自分への備忘と戒めの為にざっくばらんにまとめておこうと思う。

このご時世、あらゆるどん詰まりの風潮の中で、「絆」という言葉が合い言葉のようにあれだけ広まることを見ていても、みんな潜在的に人との関わりやつながりに飢えているし、求めていることがもう飽和しているような時代にはいってきたと思う。

フェイスブックがこれだけ広まり、あらゆるSNSで毎日イイネ!をつけて、コメントを書き合う、画面の上でのそのつながりでさえも、安心につながる時代なのだ。自殺者が年間3万人を越えると言うこともそうなのだ。3万人が自殺できてしまうこの世の中に蔓延しているのはきっと孤独と寂しさのような類であるし、なによりもそれを止める人間と、死にたいことに気づく人間、ガス抜きさせてあげられる人間が必要なのだと思う。

時代は回ると言うが、「家の時代」、「家」という縛りは絶対的な力があって、その中では「個」は「家」の下にあった、そういう時代の中では、今よりも個の自由度はきわめて低かったが、その分危機的状況に陥る確立もきわめて低かったのだろうと思う。なんだかんだ色々なしがらみがうっとおしく、どろどろとした暗部を抱えながらも、それなりに守られながら「家」というコミュニティの中で庇護されてきたのだ。

そして時代は高度経済成長に入り「家」から「個」になってきた、息子が親父を平気で軽々追い抜いて行く時代の中で、家の縛りを越えて「個」はどこまでも自由になった。そして自由と引き替えに、守るべき後ろ盾も失ったのだ。どちらがいいかはわからない、でも昔から思うのだけど、みんな「自由」という響きには無条件で憧れ、無条件で目指そうとするけど、自由ほど怖いものはないし、自由ほど実力がなきゃ生き残れないものはないということを見落としがちなのだ。

今の時代は、なんだかんだと数十年前にくらべて、家や出身にとらわれず、だれでも学校にいけるし、言い方は極端かもしれないけど、平民であっても官僚になれる時代だ。その自由の暗部がそのまま今の時代の暗部であり問題なんだろうと思う。

ここにきてそれも変わろうとしていると思う。

勝ち組や負け組なんて言葉があるが、これは何を指すかとよくよく考えたときに、はじめ、これは収入や仕事のことばかりが先行しているように感じたのだけど、最近はちょっと見方が変わって、ようは収入や仕事が安定すると、より質のたかいコミュニティがそこに付随してくるのだ。

それがあるかないかということが、勝ち組やリア充という言葉の根底には流れているような気がする。人とのつながりをみんな潜在的に欲していて、その価値が今高まってきているのではないかと、はっきりいって最近そう思い込んでいる。

人間は他者との関わり中で、許容されて、認められて、否定されてはじめて自分の存在を認知できる生き物なのだと思ってる、反応されないということが一番堪えるのだ。ぶつかりあうことを避ける風潮が最近蔓延しているけど、ぶつかり合わなくなるからこそなにか大事なものを失ってしまうのだとすら思ってる。

そう考えたときに、自分は道を歩いてすれ違ったやつがなにを言ってても反応しないだろうし、そもそも何かんがえてるかわからない。そもそも毎日顔合わせて、気を抜いて会話してなきゃそんな関係を築けるはずがないと思う。

だからまずはそういう場が必要なのだろうと思う。

でも、それはなにか「お話しましょう会」とか「悩みを話そう会」のような類ではなくて、「歎異抄の会」とかそういうポイントにしぼったものであっては駄目なのだろうと思う。もっといえば「ヨガ」とか「写経会」「フリーマーケット」のようなイベント的なソフトのような、気の合う人だけ、興味ある人だけがあつまる、SNSのコミュニティ的なつながりだけでは不十分で、

もっと社会的、一般的にサービスとして価値があり、またそこに入るのにハードルはきわめて低く、出入りの自由があり、それでいて、そこにいくことにある付加価値が、一見してコミュニケーションの価値を二の次にするような絶妙な位置づけを醸し出せるようなコミュニティがあればおもしろいと思ってる。

伝わりにくいかもしれないが、それは例えば駄菓子屋的なコミュニティであり、シェアハウスのようなコミュニティでもいいし、カフェ的なコミュニティでもいいのだけど、それならどこにでもある発想なのだけど、ここで大事なのは、それを1つのサービスとして0から100まで独立採算をとって運営できるぐらいの、もしくは赤字をださない中で運営し、決定的な継続性をもたせることなのだと思う。

継続性という点ではお寺というハードにはそうとうなアドバンテージがあるので、それを活用するのはありだけど、決してぶら下がったものではなく、両立させて平行線をたどれる立ち位置でないとだめなんだろうと思う。

そしてなによりも大事なのが、画竜点睛とはよくいうもので、目が入らなければ質の高いコミュニティは完成しないのだと思う。

簡単に言えば、それはつまりはすべて更地から建物を建てて、駄菓子やであれば、店に座り、シェアハウスなら自分がそこに住み、カフェであるならばそこにいつでもいるくらいの覚悟があるかということで、もっといえば自分自身がソフトになった時に大概の問題を自分で解決できるだけの力をもっているかどうかということで、

つまりは自分が龍の目になれるかどうかであり、それは言い換えれば、企画をした人間がそれをライフワークとして生きて、そこで死ねる覚悟を持てるかどうかと言い換えてもいいかもしれない。

そして、力というのは、資金力や、人間関係を円滑にするための技術だけでなく、社会的に最低限必要な知識と、経験まで含めてだと思う。

いざというときになって土地の売買もできなければ、仕入れもできない、利益をだすこともできない、決算の見方もわからなければ、人の使い方もわからないようじゃ、空中分解して終わりだ。それに一度失敗した企画をまた0から持ち直させるような経験もしておくべきだと思う。

そうじゃないと話にならない。

あと資金面に関して言えば、こう書くと誤解されそうだけど、40、50になっても自分の権限で4桁のお金を自由に動かせないような実力ではとても難しいのだと思う。それはお金だけの問題ではなくて、口だけでなく本当になにかを実行しようと思ったら、人生折り返す前に、4桁くらいのお金を自由に動かせるようになるのに要なくらいの信頼や地位を自分で確立できなきゃ、大きなことなんてできるはずない。

そして自分が僧侶という立場として、こういうことがしたいということを打ち出したときに、二つ返事で周りを納得させられるだけの僧侶としての説得力も。

以上のことを身につけなければ本当の意味で質の高いコミュニティはつくれないと思う。なんとなくお遊びならできるかもしれないけど、継続性の高い何十年も独立採算のとれる形のコミュニティはつくれないと思う。

民間にはない、お寺というアドバンテージがあるのだから、そのアドバンテージを生かしつつ、もういっぽ踏み込んだお寺つくりをしていきたいと思う今日この頃、この30代には、そういうものをつくる為に必要な経験と知識を身につけて、とにかくレベルアップしておくのだということを忘れないために、少々でかいことを書き残しておく。

これを数十年後に読んで恥ずかしい思いをするか、想像の上をいくかは自分次第。




POSTED @ 2012.02.16 | Comment (0) | Trackback (0)

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